内村鑑三 ヨブ記の研究 第2回

約百記の研究
ヨブ
大正4810  『聖書之研究』181  署名内村鑑三   坂田祐筆記
 
 
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第弐回(六月六日)
約百記は長編であるから普通に講義せば二年も三年もかゝります、併し此度は研究と云ふよりも寧〔むし〕ろ大体の御話であります、大体の要点が解かればあとは諸君が独りで読んでも了解が出来ると思ひます。
四十二章よりなる長篇でありますけれども其内容にははつきりとした区別があります、前にも申しました通り之は一の劇(ドラマ)と見ることが出来ます、ドラマの文体であると云ふことを念頭に置いて読めば大に了解し易いのです、劇としては登場人物は甚だ少ないのですから誰にでも直ぐ解かります、劇としては其外形に於ては極くつまらないものです、約百記の尊うとい所は人の心中にある劇であります、先日或人が私に向て約百記は劇であるといふから之を芝居にして演(や)つて見たらどうですかと問ひました、私は約百記の芝居を演(や)る様な偉らい役者がないと答へました、此芝居を演(やる)にはカーライルの様な人が役者とならなければ出来ません、之を見る人も亦之に相当した人でなければ中々見るに堪へないと思ひます、約百記は劇的には出来て居ますけれども昔から未だ演ぜられたことはありません、近頃サロメと云ふ劇があります、私は之を見ませんけれども、其人物は多分ヘロデ王サロメ、其母なる王妃ヘロデヤ、バプテスマのヨハネ等でありませう、サロメ劇は此世の普通の事柄を演ずる者でありますから、解かり易いですが、約百記は余り心霊的で之をはつきり解かる様に舞台に上ぐることが出来ません。
約百記の内容を区分すれば次の様になります。
第一章―第二章緒言
第三章―第廿六章ヨブ対三友人
第廿七章―第卅一章ヨブ独語
第卅二章―第卅七章ヨブ対エリフ
第卅八章―第四十一章ヨブ対ヱホバ
第四十二章―結論
第一は序幕でありまして前にも申しました通り天上の場と地上の場即ちヨブに臨んだ災厄の光景が見えます、之はprologue (プロローグ)とでも云ひませう、次はヨブと三人の友人との議論であります 之は第三章より第廿六章まで全篇の半分以上を占めて居ます、之が済めば次はヨブの独語(monologue)であります、時に少年エリフなるものがあつて一部始終を聞いて居ましたが、両方に誤りがありますことを認めましたから憤慨して一方にはヨブを戒め他方には三人を戒めて仲裁を試みたが結末がつきません、エリフの言も不完全で効果がありませんから最後には神御自身が語り給ひました、即ち『ヨブ対ヱホバ』であります、此処で漸〔ようや〕く結末がついて其結果は第四十二章に
明瞭に記るして居ます、此書は長篇でありますけれども次の如く一言にいふことが出来ます。
一、ヨブ自身の場合
二、三人の友人とヨブとの議論
三、ヨブが議論に勝て独言すること
四、少年エリフがヨブの言も三人の友人の言も誤れることを認めたから仲裁の為め飛入りしたこと
五、ヱホバ自身語り給ふこと
六、結末がついてヨブは前よりも幸福な人となつたこと
 
約百記の内容は右の如くでありますが其主要な点はヨブと三友との議論であります、即ち第三章より第廿六章
までゞあります、此部分は全体如何なる事を教へて居るかゞ解かれば約百記の大体が解り、随て貴下方各自(あなたがたひと)が単独で読んでも約百記全体が解かる様になります。
 
ヨブを慰めに来た三人の立場を考へて見れば彼等は年齢と学才と境遇とが各々異なつて居ます、併〔しか〕し彼等は共通の人生観を持て居ました、それ故に一緒にヨブを慰めるために来たのですされど三人の友人の立場とヨブの立場とが異なつて居ますから茲にヨブと三友との間に思想の大衝突があつたのです、故に第一に此等の人々の立場を知ることが大切であります、第二章の終りに三人の友がヨブの惨状を目撃して声をあげて泣いたとありますが、之は我々日本人には一寸〔ちよつと〕了解に苦む所であります、そは我々は声をあげて泣くなどといふことは誠にざまの悪るいことで人に笑はれるのです、此点に於て日本人は西洋人と大にちがつて居ます、西洋人は悲しい時には声を出して泣きます、彼等は其真情を表はすのです、之はまことに美(うる)はしいことであると思ひます。
第三章七日七夜悲歎の沈黙にくれて居ましたが遂(つい)にヨブは耐えきれないで声を出しました其声の出し方が変つて居ます、神を詛(のろ)はない又た自分の身を詛(のろ)はない、併かし何か詛(のろ)はざるを得ませんでした、茲に於て何の咎(とが)もなき自分の誕生日を詛(のろ)ひました、其詛(のろ)ひ方は実に猛烈であります(こゝにレビヤタン云々のことがありますがこの解釈は他日に譲ります) ヨブの詛(のろひ)の言葉は一々説明せば説明出来ますが要するに生れた日と母の胎に宿りし日を繰返して詛つたのです、何事でも言葉を反覆して言へば意味が強くなるものです、ヨブは言葉の許す限り強
く詛つたのです、五十歳以上になつて進退維(こ)れ谷(きわ)まり死を求(ねが)ふ様な逆境に遭遇しない人は滅多に無いと思ひます、ヨブの場合は実に逆境以上の非常なる逆境であります、彼がかやうな詛の言葉を発するのは無理のないことであります、基督者(クリスチヤン)の最も悲しいことは自分の唯一の信頼(たより)としてゐる神が見えなくなることであります、神が見えなくなると自分が何の為めに此世に生れて来たか其事が解からなくなるのです、人生には必ず懐疑があります、之が解決出来ないで華厳の滝に飛込んだ者もあります。
併かしクリスチヤンの懐疑は之とちがひます今迄照らして居た光りが見えなくなつたとき即ち今迄頼りにして居た神が見えなくなつた時に彼の懐疑が来るのです、金満家や身分のある人が零落したほど憐なものはありません、其の如くにクリスチヤンが神が見えなくなつた時ほど悲しいことはありません、これほど憐れなことはないのです、ヨブは即ちこの最も憐な場合に遭遇したのです、彼の詛(のろい)の言葉歎(な)げきの声は茲に書いてある言葉丈けで説明してもよく了解が出来ません、若し諸君の中で少しにてもヨブの如き境遇に会つた人は其経験から顧みて、ヨブが自己の命を苦痛に感じた様に其生命即ち活きてるといふことを苦痛に感ずるでありませう、神を愛するクリスチヤンにもかゝる災禍が臨むのであります、併かしクリスチヤンには之は恩恵として来るのです、私にも自分が活きてゐることが苦痛になつたほどの災が臨んだことがありました、その時私は苦痛に堪へませんから或る牧師に相談に行きましたら、其牧師は私に向て『君は便通がないからそんなに苦しむのだらう』といひました、かゝる苦痛を実験したことのない人には解らないのです、少しでも悪魔に打たれた経験を持てるクリスチヤンにはヨブの経験は解かるのです、世間の多くの人には解らないのです、我々は此世の人に容れられない為に歎げきません我々クリスチヤンには我々の歎きがあるのです、それは我々の唯一の頼(たよ)りである神が見えなくなつた時であります、我々には之れより大きい歎げきはないのです、青年諸君は多くはかゝる苦痛を了解出来ないでせう、併かし諸君は他日経験を積むに従て之を了解することが出来る様になります。
第四章テマン人エリパズの言であります、此人は三人の中の老練家であります、即ち彼等の代表者であります。之に依て三人の人生観と彼等のヨブに対する態度が解かります、テマンといふところは何処であつたかは聖書の他の処より解かります、即ちエドムといふ国で死海の南にある商業上大切な処でありました、商業上繁盛な処でありましたから此地に居た学者も商売上の感化を受けて所謂〔いわゆる〕商売的人生観を持て居たのです、即ちテマン主義とも称すべき一種の人生観を持て居たのです、単にエリパズ一人の人生観ではないのです。
 
二節以下『さきに汝〔なんじ〕は衆多〔おおく〕の人を誨〔おし〕へ諭せり』……ヨブは之をいはれたときは一言もなかつたのです、曾ては人を慰めた身がかゝることをいはれては堪まらなくなつたのです、併かしエリパズの言ふた様なことは人生の艱難を備(つぶ)さに嘗(な)めた人は言はないのです、エリパズは老練家であつたけれども未だ人生の真の艱苦を嘗(な)めたことのない人です、彼は未だ艱難の学校を卒業しないのです、約百記の作者は人生の艱苦を備(つぶ)さに味ふた人であることが解かります、エリパズの言は慰めのための言であつたけれども最初に先づ一針をヨブに喰(くら)はしたのです。
十節以下こゝには獅子の種類をあげて居ます、要するに獅子の様な猛きものでも神にあへば直ぐに亡ぶ況〔いわ〕んや弱い人間に於てをやと、ヨブにあてこすつたのです、之れヨブに与へた第二針であります、人の盛衰は皆其所業の結果による、罪なくして亡ぶる者はない、ヨブに臨んだ災も皆其罪の結果であると言てヨブを責めたのです、私にも此様なことがありました、私が非常な逆境にあつた時に、キリストの深いことを知らない残忍無慈悲なる教会信者が来てそれは『貴下(あなた)の罪の結果である』といふて責めました、かくいはれた時には私は一言もないのです エリパズの此多くの言はヨブには慰めとならないで却て苦痛となつたのです、非常なる歎げきの上に又た歎きが加はつたのです。
十二節以下之は有名なるヨブ記の幽霊談で文学的価値のあるものです、如何なる文学にもか程に慄然(ぞつと)する幽霊の話はないのです、セーキスピアのマクベス劇の幽霊も之には如〔し〕かないのです、併かし訳文ではそんなに怖ろしく表はれて居ません、幽霊の話は我々は始終聞く話であるから此処の記事も至て平凡に聞えます。
併かし平凡に聞えますけれども其中に深い真理があります、人生蜉蝣〔かげろう〕の如しとか、空の空なるかなといふやうなことは常套語〔じようとうご〕であるからそんなに強く響きませんが、併かし唯〔ただ〕一人寝て居る時に而かも幽霊が出て之を言ふときは誰か感じないものがありませう、深い印象が骨身にしみ渡るのです、場合によりて単純なる真理も深く印象を与ふるものでありますから茲に幽霊の話を以て人生観を語つたのでありませう。
人生蜉蝣の如く何人も必ず亡びるといふことは此場合ヨブには大分慰めとなつたのでせう、三人の友人の立場はエリパズの此言葉で解かります、義人には幸福が来たり悪人には不幸が来たるとは彼等の人生観であります、故に彼等は不幸が臨んだ人は其人は隠(かく)れて悪事をした結果であると主張したのです、是に於てヨブは自分の事を解することが出来なかつたのです、是迄ヨブも亦テマン人と同様の人生観を持て居たのです忠実に神に仕へて居れば幸福が来たり罪を犯せば不幸が来ると考へて居たのです、然かるに自分は罪を犯した覚がないのにかゝる不幸が臨んで来たから自分で自分の事が解らなくなつたのです、茲にヨブの弱味(よわみ)は彼は三人と同様の人生観を持て居るから、即ち自分で自分と三人とに反対しなければならないことです、平常の健康なる場合には三人の友人の反対に対することが出来ますが、今は彼は悲惨に陥つて居て一方には唯一の望みである神が見えなくなり即ち神が彼を棄てたかの如く思はれ、他方には自己の申分は三人の友と共に自分を裏切て居るのですから彼の苦痛の程は実に察するに余りあるのです。
彼等三人の友人はヨブが始終彼等に話して居た言葉を捕へて彼を責めたのです、而してエリパズは経験を以て、
ビルダデは学問を以て、ゾパルは元気を以てヨブを責めたのです、汝は何か隠れて罪悪を犯したに違ひないから今其れを言ひ表はして謝せよ、さすれば再び元の幸福にならんとは彼等が等しく主張する所であります。
私は或知人が姦婬罪を犯したと云ふ嫌疑を受けて其教会の老牧師より白状せよと手ひどく詰責せられた事を聞いたことがあります、其人は全く覚えのないことでありますから随分苦しい目にあつたといふことです、かゝることは教会には珍らしくないのです、ヨブの場合も亦その通りです、彼は犯罪の覚えがないから彼れにのぞんだ不幸の解決がつかないのです、茲に劇的価値があります、神が我等に災難を与へるのは我々が不善を為した為で
はありません、何か他に深い目的があつて我々に災禍を下さらるゝのです、災難の大小によりて我々の罪悪の大小を判別することが出来ないのです、ヨブの三人の友人にはそれが解からなかつたのです、之れヨブの苦痛が大なる訳(わけ)であります、茲に起る問題は神は不公平ではないかの問題であります、我々は天道是乎非乎と叫ぶことがあります、かゝる場合に解決を与へる者は約百記であります。