内村鑑三 ヨブ記の研究  第1回

内村鑑三ヨブ記の研究は聖書注解全集の第4巻目に当たる。
 
その構成はヨブ記の研究(1)」と題して5回に亘って全体像を述べて行く。
次いで「ヨブ記の概要」と題して、これも5回に亘っての講演であるが、先の「研究」は 坂田祐氏の筆記であり、「概要」は他の弟子の一人である 中田信蔵の筆にる。
二人の弟子によって内村の講演はどの様に受け止められたかの違いを知りたかったようです
 
「研究」と「概要」に続いて「角筈聖書ヨブ記」と題して1章から17章までを角筈〔彼の住所〕の名前を付けて字句の注解付きで「聖書研究社」から発売するように計画したが、途中で「聖書の研究」一本に縛られた。
 
しかし内村は聖書研究について、こう言ってます、「神の聖書を研究するに当たってよるべきは人の説にあらずして、聖霊の光なり。考証、いかに核博をきわむるとも、研鑽 如何に深遠にわたるとも、もし天よりのこの光なかりせば、聖書はわれらにとりて一大迷語たるに過ぎず。聖書研究については博学恐るるに足らず、老練頼むにたらず、ただ、直接神にのみ教えられし者のみ真性の知識を有す、と。
 
 
約百(ヨブ)記の研究
 
大正4810  『聖書之研究』181  署名内村鑑三   坂田祐筆記
 
第一回(五月三十日柏木聖書講堂に於て)
今日から約百記の御話をしやうと思ひます、之を思ひ付たのは先頃から本誌に出て居るゴーデー先生の雅歌の研究によるのです、之は偉い研究であります、読者に取ては実に大なる福音であります、多分来月号で終りになりますから今度は私がゴーデー先生に代て之を述べたいと思ひます、茲に注意すべきは雅歌を了解するには先づ約百記の了解が大切であることであります、喜びに在て如何に処すべきかを教ふるものは雅歌であります、困苦にありて如何に処すべきかを教ふるものは約百記であります、日本の今日のごとき困難の状態にあつては約百記を要するのであります、しかしかゝる困難の中にもたまたま得意の境遇にある人があります、かゝる人には雅歌が大切であります。
 
約百記は四十二章あります、聖書中最も長き書の一であります、之を詳(く)はしく了解するには大に学問がいります、然〔しか〕れども約百記が教へます主要な点は誰にでも解ります、学問がなくとも老人でも少年でも男でも女でも解ります、細部に渡りましては私にも解からぬ所が沢山ありますが然かし主要な点は諸君に伝ふることが出来ると思ひます、諸君は仮令〔たとえ〕解らぬ所はありましても努めて毎日二三章づゝ読んで来て下さい。
約百記は偉大なる書であることは云ふ迄もありません、世界の最大著述といへばダンテの神曲、セーキスピーアの劇作、ゲーテの『フアウスト』でありませう、然かし此等の最大の書以上の書で価値を付くることが出来ないほど無限に貴重なる書は約百記であります、世界に之に比ぶる書はありません、而〔しか〕して約百記は其要点は誰にでも解ります、大著述の特徴は其書の主要なる点は誰にでも解かるといふことであります。此無限に貴い約百記は実に偉大なる書であります、作者は誰であるかわかりませんが人類がある間決して亡びざる貴い書であります。
ヨブが絶大の困苦と災厄にあふて如何〔いか〕に身を処したか如何に之を耐へ忍んだか其艱難を如何に了解したか彼の心の最も深き所を言ひ表はしたものであります、私はダンテとセーキスピーアの書を読みました、ゲーテの『フアウスト』も読みました、読んで其の偉大なるに驚嘆しました、然かし約百記を読んで之に比ぶれば約百記は遥かに上であります、即〔すなわ〕ち第一等の著であります、諸君は今之をよく了解出来んでも漸次に齢が進み経験が加はるに従てよく解かつて来ます、ます〱此書の価値を認むるに至ります、カーライルが或人に世界最大の書は何んであるかと問はれたときに聖書であると答へ、聖書の中で最大なるものは約百記であると答へたそうです、そこで彼は友人の請に応じて約百記を朗読したそうです、その時あの気六ケ〔きむずか〕しのカーライルは知らず〱書中の人となり音吐朗々自らヨブの如き気分になり、聴者は恍惚〔こうこつ〕として恰〔あたか〕もヨブ自身が語てる様に感じたそうです、而してカーライル自身何処〔どこ〕迄読んだかわからなかつたといふことです。
約百記の著者は明かでありません、かゝる著述を為〔な〕す人は世界に二人とありませんから、多分モーゼが書いたらうといふ人があります、此書の内容には古代の種々なことがあります、鉱山の事冶金〔やきん〕の事があります、若〔も〕し人が鉱山や冶金の歴史を書かうとしたら多分此書から材料を取りませう、モーゼが書いたといふ説は傾聴に値する
も証拠がありません、此が雅歌と並んで読むべき書であるといふことから考へますれば矢張りソロモン時代の偉らい人が書いたものでせう、かゝる大著述は仮令〔たとえ〕著者が不明であつても之によつて当時の社会を知ることが出来ます、兎に角〔かく〕此書は人生の最も深刻なることを表はして居ます、また人類のいろいろな事を記(し)るして居ます、此書がよく解かれば現代の劇などは到底比べものになりません、恰〔あたか〕も児戯に類して居ます、富士山をヒマラヤ山に比ぶる様なものであります。
約百記は単に著者の想像から出来たものではありません、一の事実を基礎として書いたのであります、恰も忠臣蔵の作者が之を書くに方〔あたつ〕て吉良上野之介と浅野内匠頭の事実を基礎とした様なものであります、多分ヨブといふ人が在て其人の経歴を骨子として作者が自分の心底を書いたものでありませう、ですから之を全部文字通りに事実として解釈するときは誤ります。
第一章一―五之は序幕でヨブの家庭の有様であります、此記事を見ればヨブの家は最もうるはしい繁昌の家であつたことが解かります、ウヅといふ処は何処にあつたか不明でありますが多分アラビアにありましたらう、子の数は男女適当の数であります、家畜も沢山あります、即ち最も裕福な家であります、燔祭〔はんさい〕を献げたとありますから彼は信仰の篤〔あつ〕い人であつたことが解かります。
 
六―十二幕が変て天上の場となります、神の子等がヱホバの前に来て立て居ます、サタンも来て評定に加て居ます、此記事は事実であるか何〔ど〕うかは解かりませんが、人生の事は此世計りでなく又た天上に於てもあるのです、即ち舞台の上ばかりでなく楽屋の内にもあるのです、ヨブの事は正にそうであつたのです、ヨブが地上にあつて天上の事は何も知らないのに、天上では神の子等がヱホバの前でヨブを賞〔ほ〕めて居たのです、而して其中に一人の悪いもの即ちサタンがあつてヨブを誣告〔ぶこく〕して居たのです。
此世に於ても我々の間にかゝることが屡々〔しばしば〕演ぜられるのです、少しく政治に通ずる人は此のサタンのやる様なことをよくやる人を見るのです、サタンとは何んであります乎〔か〕、人に真善なるものは無いと信ずる者であります、彼は善も義も皆な利益を目的として為さるゝ者であると信ずるのであります、ある紳士が曾〔かつ〕て私に問ふて『君今迄宗教をやつて幾何(いくら)溜まつたか』と言ふたことがあります、其人はかゝる問を発することを別に無礼とも思はないのであります、か様な考を持て居るものは世間に沢山あります、サタンはかゝるものゝ頭(かしら)であります、彼等のやることは皆算盤づくめであります。皆利益の打算であります、今日世界の国際間の事も亦〔また〕皆利益問題が主となるのです。
ヱホバはサタンの請を容れてヨブの処置を彼に委(まか)せました、今日の語で言ひますればヨブは真のクリスチヤンであるか否かを試めされたのです、即ち神とサタンの賭け事であります、此世で信者と不信者とは其数甚だ異つて居ますが我々が若し信者不信者を試めす場合には矢張りこんな方法を取るのであります、サタンは神と賭(かけ)をして地上に降りました。
十三―二十二ヨブの家に臨んだ悲劇の場であります、一日の中に四の災禍が起りました、人生に於て斯様〔このよう〕な事は珍らしいことであるが不運が続く時は続くもので之に類した事はあるのです、一年の中に数人の子を失なつた人の例もあります、併かしヨブは己を全く神に献げてあるから此の連続せる凶変にあふて却〔かえつ〕て神を讃(ほ)めました、ヨブの信仰は之によりて少しも動揺しません、神に向つて一言も愚かな事をいひません、是に於いてサタンが負けてヱホバが勝ちました。
第二章一節―六節 再び天上の場であります、サタンがヱホバに向て人間の最も大切な物は生命である、生命を損(そこな)はれても不平を言はず信仰を維持する者はない、如何にヨブと雖〔いえど〕も生命に危害を加へらるれば不平を言はずに居ない、必ず神を詛〔のろ〕はん、乞〔こ〕ふ試みよと言ひました、此処〔ここ〕に『皮をもて皮に換る』といふ事は如何なる意味であるかよく解かりませんが、多分昔の諺(ことわざ)であつて、人間は自分の命の為めには何物をも犠牲にするといふ意味でありませう。
七―十節 幕は変(かわつ)てサタンはヱホバの許〔ゆるし〕を得て再び地上に現はれてヨブを打ちました、此時ヨブに臨んだ病気は或医師の言〔ことば〕によれば癩病の一種で白象病といふいやな病気であつたらうといふことであります、ヨブは乾いた灰の中に坐て身を掻いて居ます、之を見てヨブの妻は耐えきれなくなつたのです、ヨブに向て神を詛(のろ)ふて死ねといひました、妻は第一番に負けたのです、然かしヨブは屈しませんでした、疾病(やまい)も神の恩恵であるといひました、彼は唇では神を詛(のろ)ひませんけれども心の中には大戦争が始まつたのであります。
十一―十三節ヨブの三人の友人が彼の災禍(わざわい)を聞いて見舞に来ました、第一の友は老人で経験を語ります、第二の友は学者で学問を語ります 第三は青年で元気を表はします、一同衣を裂いて悲歎を表はしました、ヨブは今日迄は友人が居ませんでしたから、黙〔だ〕まつて耐えることが出来たのです、然かるに今面〔ま〕のあたり同情してくれる友を見ては耐えきれなくなつたのです、之れ人情であります、我々はたゞ一人の場合には悲みを忍ぶことが出来るものです、ヨブは今迄は裕福で安楽な家庭にあつて友人を慰める地位にあつたのです、然るに今反対に彼等から慰めを受ける境遇に変たのですから一層悲歎に陥たのであります。
茲〔ここ〕に問題となるのは此世の人生観は果して人間の苦痛を慰むることが出来るかどうかといふことであります、
 
ヨブに臨んだ様な苦痛は連続して来ないにせよ、何人にも或種類の苦痛は必ず来るのであります、此場合に何故にかゝる苦痛が臨むのであるかとの疑問が起るのであります、作者は天にあつた事の結果として地上のヨブに災禍が臨んだことは知つてゐるけれども、ヨブには天上のことは解からないのであります我々の苦痛の原因が天にあることを知ればどんな苦痛でも耐え忍ぶことが出来ますが、それを知らないから奮闘(ふんとう)が起るのです、恰も学生が問題を与へられて其解答に苦んでると同様であります、先生が解答を与へてくるれば成る程と直ぐ合点がゆきますが、そうでないと中々苦しむのです、人間と神との関係も同じであります、幕が開らけて苦痛の源因が天にあつた事が解つた時には、我々の終生の奮闘努力が之を解く為めであつた事を初めて悟るのであります、教授の良法は学生をして自分で問題を解くに努力せしむる事であります、神は人生の問題を解く方法を初めから教へ給はないのであります、茲に於てヨブ記は実に人生大問題の解釈を教ふる最も偉大なる書であることが解ります。
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