内村鑑三 マタイ伝 64講 乗雲の解

64 マタイ伝
 
乗雲の解
(聖書を戯謔(あざけ)る基督教の教師等に告ぐ)
大正7610  『聖書之研究』215   署名内村鑑三
 
○基督再臨の信仰を戯謔(あざけ)る者は彼が雲に乗りて臨(きた)り給ふといふ事を戯謔(あざけ)るを以て常とする、彼等は曰ふ、雲は湯気の集団である、人いかでか湯気に乗るを得んやと、斯く言ひて彼等は自身が神の書なりと唱へ来りし聖書を戯謔(あざけ)ると同時に亦(また)彼等の信仰の科学的なるを衒(てら)ひつゝあるのである。
 
○然〔しか〕し乍〔なが〕ら若〔も〕し彼等が少しく注意して彼等の聖書を覈(しら)ぶるならば彼等は自己の戯謔(あざけり)の甚(はなは)だ理由なきことを発見するであらう、聖書記者は彼等の思想を表(あら)はすに方〔あたつ〕て其文字を択ぶに用意周到であつた、彼等は近代人が思ふが如くに非科学的思想に走らなかつた、聖書の誤謬〔ごびゆう〕を指摘して得意たる今時の神学者牧師等は少しく注意して彼等の聖書を覈(しら)ぶべきである。
 
○今聖書に就て之を見るに馬太〔マタイ〕伝廿匹章三十節の日本訳に「人の子の天の雲に乗り来るを見ん」とある、然し乍ら原語の聖書に「乗り」なる文字は無いのである、故に英訳聖書は単にcoming on the clouds of heaven(天の雲の上に来る)と訳して「乗り」なる文字を省(はぶ)いて居る、馬可〔マルコ〕伝十三章廿六節に於ては日本訳聖書すら「乗り」なる文字を省(はぶ)き単に「人の子の雲の中に現はれ来るを見ん」と訳して居る、路加〔ルカ〕伝廿一章廿七節に「雲に乗り来る」とあるも此場合に於ても馬太伝同様「乗り」なる文字は之を原語に於て見ることが出来ないのである、黙示録〔もくしろく〕一章七節の場合も同様である、如斯〔かくのごと〕くにして「雲に乗り」とあるは訳者の意訳に過ずして原記者の記(しる)したる所ではない、マタイもマカもルカもヨハネも人の子雲に乗りて来るとは記(しる)さなかつたのである。
○然らば彼等は何んと記(しる)したのである乎(か)、先(ま)づルカより始めんに、彼は「人の子は雲を纏(まと)ふて来る」と記したのである、彼が此場合に用ゐし文字は希臘〔ギリシア〕語の前置詞EN である、此前置詞に「纏(まと)ふ」又は「衣(き)る」の意味がある(文法家の所謂〔いわゆる〕EN of investiture) 而〔しか〕して此事を明白に記表(かきあら)はしたる者が黙示録十章一節である、曰(いわ)く「我れ一人の強き天使の雲を衣て天より降るを見たり」と、同じやうにルカは人の子は雲に乗りて来ると記(か)いたのではなくして雲を衣て来ると録(しる)したのである。
 
○馬可(マルコ)伝十四章六十二節の場合に於て記者の用ゐし文字は前置詞のMETA であつた、而して此詞(ことば)の意味は「偕(とも)に」とか、又は「中に在(あ)りて」とか云ふべき者なるが故に、日本訳聖書に於ても「乗り」なる文字を省いて単に「雲の中に現はれ来る云々」と意訳したのであらう、如斯(かくのごと)くにしてマルコの記きし所はルカの録せし所と少しく異るも、両者共に「雲に乗りて」とは明記しなかつたのである。
 
○然(さ)らばマタイは如何〔いか〕にと云ふに、彼は前置詞のEPI を用ゐたのであつて是れ或ひは「乗りて」と意訳して差支ない詞(ことば)であらう、然し乍ら彼と雖〔いえど〕も「乗る」とか又は「坐する」とか云ふ文字を用ゐざりしことは前に述べたる通りである、「雲の上に来る」とはマタイの録(しる)したる所である、而して「上」と訳されし原語のEPI に又統御又は統率の意味がある、ゆえにマタイの記(か)きし文字を「雲を統率して来る」と意訳するも文法上何等の差支は無いのである。
 
○黙示録一章七節の場合は馬可伝十四章六十二節の場合である、故に「雲に乗りて」と云はずして「雲の中に現はれ」と訳すべきである、同じく希臘ギリシヤ語のMETA である、「偕に」又は「其中に在りて」の意である。
 
○如斯(かくのごと)くにしてルカは「雲を衣て来る」と云ひ、マルコとヨハネとは「雲の中に来る」と云ひ、マタイは「雲の上に」又は「雲を率ゐて来る」と云ふ、孰〔いず〕れも「雲に乗りて」とは云ふて居ない、勿論「乗りて」と明記したりとて敢て迷信視するに及ばずと雖も、而かも注意深き聖書記者等は斯かる瑣細(ささい)の事に至るまで之を等閑(なおざり)に附せざりしを見て、我等は其記事の信頼すべく、其使用せし文字の軽々しく看過すべき者にあらざる事に今更らながらに気が附くのである。
 
○然らば「雲」とは何である乎、雲とは理学上の湯気の集団(かたまり)であるか、若し爾(さ)うであるとしても少しも差支(さしつかへ)は無い、水の上を歩(ある)き給ひしキリストが雲に乗り来り給ふと聞いて信者は少しも怪(あやし)まないのである、余輩は雲は雲にあらずと唱へて聖書の弁解に努むる者ではない、然し乍ら「雲」とあるが故に直〔ただち〕に湯気(ゆげ)の集団(かたまり)であると解するは余りに平凡なる見方である、預言は未来の透察(とうさつ)であるが故に自(おのず)から詩的である、表号的(へうごうてき)である、預言の明確の意味は其実現の時に至らざれば判明しない、雲とは理学上の雲である乎、或ひは雲に似たる或者である乎、今日之を判定することは出来ない、然し乍ら聖書の他の記事と照合(てらしあわ)して吾等は略(ほぼ)その何たる乎を推測する事が出来る、而して希伯来〔ヘブル〕書十二章一節に「許多(おおく)の見証人(ものみびと)に雲の如く囲(かこ)まれ云々」の言辞(ことば)あるを見て、又は猶太〔ユダ〕書第十四節以下に「視よ主其聖(きよ)き万軍と偕(とも)に来りて衆人(すべてのひと)を鞫(さば)き云々」の言辞(ことば)あるを見て雲必しも雲にあらざる事を知るのである、主は聖(きよ)き万軍に雲の如くに囲まれて来り給ふのではあるまい乎、而して其事が聖書記者等が人の子雲と偕に、或ひは雲を率ゐて、或ひは雲に纏(まと)はれて来り給ふと録(しる)したる事ではあるまい乎、天の万軍の聖衆に囲まれて来り給ふことを雲に囲まれて来り給ふと言ふと雖も余輩は其間に何等の悖理(はいり)をも認むる事が出来ない、是れ確かに詩的解釈である、然し乍ら詩的ではあるが空想ではない、主の具体的に来り給ふ事は確実である、而して馬太伝廿五章卅一節に於て主が「人の子己れの栄光をもて諸(もろ〳〵)の聖使(きよきつかい)を率ゐ来る時は其栄光の位に坐し云々」と言ひ給ひたりと録(しる)しあるを見て余輩の此解釈の当らずと雖も遠からざるを思ふのである。
 
○如斯くにして日本訳聖書に「人の子雲に乗りて来る」とあるが故に基督再来を信ずるは迷妄なりと戯謔(あざけ)るは不注意極まる行為であると思ふ、世に見苦しき事とて基督教の教師等の聖書攻撃の如きはない、彼等は宜しく深く聖書を覈(しら)べて之を弁護すべきである、軽々しく聖書を戯謔(あざけ)りて自己の立場を覆(くつがへ)すべきでない。
 
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