内村鑑三 マタイ伝 61講 嬰児の死

61 マタイ伝
 
嬰児の死
明治43610  『聖書之研究』120   署名内村鑑三
 
五月十一日、生後十ケ月の小女の葬儀に臨みて述べし所なり、時に暴風屋外に荒れ、内に集(つど)ひし者、其両親を合せて僅〔わず〕かに十人なりき。
汝等慎みて是等の小さき者の一人を軽視(かろしむ)る勿〔なか〕れ、そは我れ汝等に告げん、彼等の天の使者(つかい)は天に在りて天に在(いま)す我が父の面(かお)を常に見詰(みつ)むれば也。馬太〔マタイ〕伝十八章十節、自訳。
 
エスが小児の事に就て言はれし言葉は幾個(いくつ)もありますが、是れは其中で最も美しい、又意味の最も深い者であると思ひます、「汝等慎みて小さき者(小児)の一人を軽視(かろしむ)る勿れ」と言はれ、後に「我れ汝等に告げん」と言はれて事の至て重大なるを示し、「彼等の天の使者云々」と述べられたのであります、即〔すなわ〕ちイエスの偉大と権能とを以てして、小児の事は重大事件であると言はれたのでありります。
 
小児に天の使者が附いて居て、天に在りて、地上の彼等を代表して常に在天の父様の聖面(みかお)を見詰めて居るとは多分此事に関するイエス在世当時のユダヤ人の思考(かんがへ)を述べたものでありまして、真(まこと)の事実では無からうと思ひます、それは人には各自(おの〳〵)、彼を護るの星があつて、彼の運命は其星を見て判明(わか)ると思ひし中古時代の思想に類したる者であると思ひます、イエスが茲に述べられたのは小児と天使との関係に就てゞはありません、神と小児との関係に就てゞあります、若し神を国王に譬(たと)へ、天国を彼の朝廷に喩(たと)へますならば、小児は其朝廷に於て彼の公使を有(も)ちまして、其公使は彼を代表し彼に代りて常に国王の前に侍(はべ)り、国王と彼との間に親しき交通を計つて居るとのことであります、即ち神は小児に対しても世の国王が他国の王に対するが如き態度に出でられ、親しく之と交はり給ふとのことであります、此事たる実にイエスを待て始めて人類に示されたる事でありまして、実に驚く
べき福音と云はざるを得ません、神が国家を護り給ふとか、国王と親しみ給ふとか、特に偉人を顧み給ふとか云ふことは、信ずるに難い事ではありませんが、然し彼が小児を守り、之と親み、之に対して偉人帝王に対すると同じインテレストを取り給ふとは実に人のすべて思ふ所に過ぎて驚くべく又喜ぶべき事であります、然し此事は真理(まこと)であるのであります、神に取りては人は其老若大小を問はず、すべて甚だ貴くあるのであります、其点に於ては今や英国ウェストミンスター寺院の内に盛装されて横たはる故エドワード第七世陛下も、亦〔また〕今此処〔ここ〕に我等の前の此小さき柩(ひつぎ)の中に眠むる此小さき女子も神の眼の前には一様に貴くあるのであります。
実に世人の眼から見まして一人の人の死は何んでもありません、殊に一人の小女の死とあれば一顧(こ)の価値(ねうち)もない事のやうに思はれます、唯(ただ)社会の一員が消えたのであります、未(いま)だ何の事業をも為さず、何の責任をも負はない者が去つたのであります、是れ別に注意すべきことではありません、然しイエスキリストの御父なる神に取ては爾うではないのであります、彼に取りては是は大詩人又は大政治家又は大軍人が死んだのと同じ事件であります、五羽の雀は一銭にて售(う)るに非ずや、然るに神は其一をも忘れ給はず、汝等は多くの雀より優(まさ)れりとイエスは他の時に曰〔い〕ひ給ひました、人の死と云ふ大事件に就ては帝王の死も小女の死も同じく「恐怖の王」と称せらるる「死」でありまして、其我等に与ふる大教訓に至ては少しも異なる所はありません。
人の生命は斯(か)くも貴重の者でありますが故に、我等は今日復(ふた)たび茲(ここ)に生命の貴重なることを学ばなければなりません、今、此愛らしき小女を失ひし親御(おやご)」の心に成つて御覧なさい、是れ単に損失と称すべき者ではありません、若し是れが他の者でありますならば、価を払ふて再び之を取り換へることが出来ます、若し価の高き獅子が死にましたならば、或は麒麟(きりん)が死にましたならば、別に之に代ふるの者を獲ることが出来ます、然し人は生後十ケ月の小女でも爾うは成りません、是れは永久の損失であります、此世の財貨(たから)を以てして到底計算することの出来ない損失であります、昔しダビデ王の曰ひました通り彼れ最早復〔ふたた〕び我に還らず、我れ彼に往かんのみであります、死の恐しさは茲にあります、生命の貴さは之れで判明(わか)ります、此大教訓を与ふるに於ては此小女の死は今や一身に全世界の哀悼を惹(ひ)きつゝある英国前皇帝の死と何の異なる所はありません。
夫〔そ〕れでありますから我等は今日此小さき者に教へられまして今より後一層生命を貴ばなければなりません、一日に何万人が戦死したと聞き歓喜するが如き無情に出てはなりません、街頭(ちまた)に遊ぶ貧乏人の小児を見て、之を度外視してはなりません、彼等の天使も亦天にありて天の父様の聖顔(みかほ)を見詰めつゝありと知りて、茲に大に彼等の救済をも講じなければなりません、而〔しか〕して斯〔かく〕の如くに此小さき者の死より学んで我等は彼女をして無益に死なしめないのであります、人が犬死すると否とは後(あと)に残りし彼の骨肉友人の行為如何(いかん)に由て決定(さだ)まるのであります、彼の死に由て善き教訓を得、之に由て善き事を為(な)して彼は誠に地下に瞑するのであります、人は死んで其霊は天に往くのみではありません、彼は又地に止まります、其の骨肉友人の心に止まります、而して彼等に由て地上に働らきます、而して如斯〔かくのごと〕くにして彼は亦地上に於ても永久に生きるのであります。
 
此嬰児(おさなご)は生後十ケ月にして此世を逝(さ)りました、彼女をして五十年六十年の生命を保たしめんものをとは両親の心であります、然し其事叶はずして彼女は失せて両親の心に無限の悲哀(かなしみ)があります、然しながら今と雖(いえど)も彼女をして長き生命を保たしむることが出来ます、即ち彼女の死に由て学び、彼女の名のために多くの善き事を為して、彼女の父と母とは彼女をして永久に地上に存(なが)らへしむることが出来ます、ドウゾ此愛憐(いと)しき、蕾(つぼみ)の如き嬰児(おさなご)が永久に我等の中に在て働くやう努めて下さい。
1910(明治43)年6月
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