内村鑑三マタイ伝 1講

福音書に就て
(五月廿六日東京数寄屋橋会堂に於ける講演の梗概)
明治45610日『聖書之研究』 143号 署名内村鑑三
 
エスを四ツの方面より見た者が四福音書である。
エスイスラエルの理想、撰民のメシヤと見た者が馬太(マタイ)伝である、故に其の第一章第一節に言ふ「アブラハムの裔なるダビデの裔なるイエスキリスト」と、旧約の理想を身に体して顕はれたる者、それがイエスである、彼の為したる事はすべて「預言者に託りて主の曰ひ給ひし言に応(かなわ)せん為め」であつた、馬太〔マタイ〕伝に循〔したが〕へば
旧約の律法〔おきて〕と預言者を廃(すつ)るために来たのではない、之を廃るために非ず、成就せんために来たのである(五章十七節)、イエスを古人の理想の実現として見た者、それが馬太伝である、馬太伝は殊更〔ことさ〕らにイエスを猶太人〔ユダヤ〕に紹介せんために書かれし彼の言行録である。
 
エスを能(ちから)ある神の子として見た者が馬可(マルコ)伝である、故に其第一章第一節に言ふ「是れ神の子イエスキリストの福音の始なり」と、馬可伝〔マルコ〕に循へばイエスの生涯は奇蹟の連続である、其第一章に於て既〔すで〕に彼がカペナウムの
会堂に於て鬼に憑(つか)れたる人を癒し、次ぎにシモンの岳母(しうとめ)の熱病を癒し、終りに癩病患者を潔めし事等、其他、幾多の奇蹟が書記してある、馬可伝に従へばイエスの生涯に勇者が無人の地を行くが如くに敵地を過ぐるの観がある、馬可伝は殊更らにイエスを能の実現なる羅馬人に紹介せんために書かれし彼の言行録である。
 
エスを人の子、人類の理想と見た者が路加伝〔ルカ〕である、故にイエスの祖先を究むるに方〔あたつ〕て、路加伝は馬太伝の如くにアブラハムを以て止まらずして更らに進んでノアに至り、更らに進んでアダムに至る、曰〔いわ〕く、「其父はエノス、其父はセツ、其父はアダム、アダムは即〔すなわ〕ち神の子なり」と(三章卅七節)、イエスアブラハムの子なるに止まらずアダムの子なり、故にユダヤ人の救主たるに止まらず亦〔また〕異邦人の救主なりとは路加伝の伝へんとした所である、路加伝は情と愛と憐憫〔れんびん〕とを重んぜしギリシア人にイエスを紹介せんとして書かれし彼の言行録である。
 
エスを宇宙の元理、人の良心として見た者が約翰(ヨハネ)伝である、故に其第一章に言ふ「太初(はじめ」に道(元理〔ことば〕)あり……之れに生命あり、此生命(いのち)は人の光(良心)なり」と、宇宙の元理として働らき、人の良心として照る者が人として現はれし者、それがイエスキリストであるとは約翰〔ヨハネ〕伝の唱ふる所である、約翰伝に従へばイエスは宇宙的実在者である、馬太伝が伝ふるが如きユダヤ人のメシヤたるに止まらず、又ロマ人の理想たる能力(ちから)の実現者たるに止まらず、更らに又ギリシア人の要求に応(かな)ふ人類の友たるに止まらず、宇宙の太初より其造化の元理として働らきし者、良心の光として万民各自の心に宿る者であるとのことである、約翰伝を以てイエスは万国の民と宇宙万物とに紹介されたのである。
 
斯〔か〕くてイエスは四大伝記を以て世界と其代表的三大国民とに紹介されたのである、回顧的のユダヤ人と、現実的のロマ人と、前進的のギリシア人と、而〔しか〕して永存的の全人類とは各自適応のイエスの言行録を供給されたのである、此の四大伝記が在つて、イエスは永久に人類の中より忘れられないのである、四福音書は終〔つい〕に此世を化してキリストの国となさゞれば止まない。
 
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このマタイ伝は、内村鑑三聖書注解全集第八巻に記載の文章を、内村鑑三全集四〇巻より転記したもので有ります。注解全集が昭和34年に刊行された者で漢字は当用漢字に変えられていますが、全集の文章は明治、大正、昭和の時代ですので、それなりに旧い漢字や仮名遣いになって居ます。