ロマ書の研究第15講

第十五講 「人類の罪」(二)
- 第三章一節 ~ 二〇節の研究 -
 
 第三章九節 ~ 二〇節は、全人類を罪人と定めし箇處であること、前述せしとおりである。そして全人類と言えば、勿論そのなかに自己のふくまれおることをみとめざるを得ない。然らば自己が罪人と定まりしは厭うべきことであるか。否な、これかえつて祝すべきことである。罪なきところに救いはないそして罪の感覺の淺いところには救いの喜びも淺く、罪の感覺の深きところには救いの喜びも深い。深く恩惠の寶泉に汲まんと志す者は、まず鋭利なる解剖力をもつて自己の心を切り裂かねばならぬ。されば罪の認知は信仰の礎石としてきわめて重要なるものである

 我らはふたたび一〇節 ~ 十八節(すなわち舊約聖書よりの引用句をかさねし箇處)に注意するところあらねばならぬ(前講參照)。
 
 「義人あるなし、一人もあるなし」と、第一語はまず力強く我らの胸にせまり來る。これ果して人類の實情であろうか。我らは然りとの斷定をあえて下すものである。しかしこの偉大にして義烈なりしクロムウェルさえ、自己の罪をみとむることすこぶる痛切にして、臨終に際してはその一生を囘顧して一時は失望におちいつたほどである。ああ、すべての人は罪人である。義人は一人もないのである。
 
 さあれ彼の論議はすべて殺すためならで生かすためである。否な、人を救わんためにはまずその人に罪人たるを自覺せしめねばならぬゆえ、當然の順序として、この萬人有罪の大斷定をあえてなしたのである。そして然るのち救いの道を開示せんとするのである 
 次ぎには「悟れる者なし、神を求むる者なし」の語がある。「悟れる者」は原語 ο συνιων(ホ スニオーン)であつて、この場合、單に悟れる者の意ではなく、神を知れる者という意である。次ぎの「神を求むる者」と相對して、前者は悟性において神を知る者を意味し、後者は意志において神を慕い求むる者を意味するのである。  

 悟れる者なく神を求むる者なしとのパウロのこの斷定は果して事實にかなつたものであろうか。。しかし聖書的意味においては彼らもまた罪人であつたこと、そしてこの一點においては、彼らはその同族たる他の人間と全く同一であつたことを我らはみとめる。それだけパウロのこの斷定の力と合適とを我らはみとめざるを得ないのである。

 次ぎは十二節である。「みな曲りて、誰も彼も邪(よこしま)となれり。善を行う者あるなし、一人だにあるなし」と言う。「曲りて」は、脱線しての意、「邪となれり」は、益なき者となれりの意である。人はみな誰も彼も正しき道より脱線して、益なき者となつてゐるというのである。これ果して事實であろうか。時に一人の老人の歩み來るに会し、

 私にとつてはすべての日が善き日である。惡しき目は一日とてもない。
との老翁の歡喜の語を聞きて、ふしぎに思い、「もし神、汝を地獄に落し入れなば如何」との問を發した。老翁はそのとき快活に答えた。

  地獄とは何であるか私は知らない。
  しかし私は主が私をはなれたまわぬことを知つてゐる。
  一の腕なる謙遜は彼の人間性を抱き
  他の腕なる愛が彼の神性をつかむ。
  それゆえ私の行く處はどこへでも彼が行く。
  彼なくして黄金の天國にあるよりも
  彼とともに火の地獄にゐる方がまさつてゐる。
 
 老翁のこの語を聞いて、タウレルの眼より涙はほとばしつた。彼はこの單純なる信頼に住む老翁より「敎えられたのである(詩人ホイッチャ作『タウレル』より)。地獄に落つるもキリストをはなれじとの信頼は、至純なる信頼である。天國に入るためにキリストを信じ善をなすという心には、とかく不純がまじりやすい。この老翁のごときはこの域に達していたのである。キリストの靈、我らを潔むるとき、我らもまたこの種の善に到達し得るのである。しかしながら、勿論これは人類中のある特別の變化を受けた人のみにかかわる。生來の人には到底眞の意味の善は行われない。「善を行う者あるなし、一人だにあるなし」である。
 
 次ぎにパウロはなお聖句を引用して言うた「その喉は開けし墓なり、その舌は詭辨を語り、その唇の下にはまむしの毒あり、その口は詛いと苦きとにて滿つ」と。これ口舌をもつてする罪惡である。 
 次ぎには「その足は血を流さんとして疾し、破壊と災難とはその道にのこれり、彼らは平和の道を知らざるなり」とある。これは行爲にあらわるる罪 ── 生活の状態としての罪 ── を述べた語である「その足は血を流さんとして疾し」とは、その生活が他を苦しめて己れを益せんためにいとなまれつつあるを示す。「破壊と災難とはその道にのこれり」は、人を取壊しつつ歩みし跡の惨憺たる状ののこれるを意味する。「彼らは平和の道を知らざるなり」とは、平和が彼らの本性にあらず、また彼らは平和の何たるかを知らざることを言うのである。
   
 戰いまさに開かれんとして、その風聲(うわさ)全地に鳴りひびくとき、および戰い、いよいよ開かれて、惨たる流血が全土にみなぎるとき、そのときこそ、實にここにある文字どおりが事實であるときである。いかに民と民とが毒舌をもつて相對することよ。いかに惡魔のそそのかす詛いの叫びが世に充つることよ。いかに憎惡そのもののごとき言葉が瀧のごとく流るることよ。極度の詛いと憎しみが言葉となりて外にあらわるる有樣は、實に人が化して惡魔となつたのではないかと思わるるほどである。しかも戰争終結するや、この詛いと苦きとにてその唇を充たせし熱狂者らは、たちまち化して平和の使徒となり、以て人類平和促進の運動にたずさわるごときは、かえつてその罪惡と混迷の深きを思わしむることである。
 
 先般の歐洲戰亂において、聯合國が敵國を呼ぶに惡魔をもつてし、一人たりとも多く敵を殺すをもつて正義人道に奉仕する處以なりとし、その宗敎家らが、神とキリストの名をもつてこのことを高調し宣傳せしありさまを思え。いかにパウロの語そのままなるよ。そして獨墺といえども、この點において勿論その敵國に劣らなかつたのである。ことにドイツにおいては、カイザルにつかうるをもつて神につかうると同一なりと見、自國の戰争をもつてキリストのためにする神聖戰争と見なし、從つて敵國をもつて神の聖業をさまたぐる惡魔となすごとき思想の根深かりしを思え。ああ、ともに正義人道の名に據り、ともに神とキリストとのために、いわゆる惡魔に對して戰いをなしたのである!「その舌は詭辨を語り、その唇の下にはまむしの毒あり……その足は血を流さんとして疾し、破壊と災難とはその道にのこれり」とは、まことに彼らにおいて文字どおり眞であつたのである。

 然らば人類は戰いに際してのみ、かく毒舌と惡行に充つるか。否な然らず、平時においてもまた然り。ただ戰いに際してはひとしお著るしくあらわるるのみである。今日、北米合衆國その他が日本民族に對して極度の惡口を弄し、その言うところ多くは虚構の誣言(ふげん)なるごときはその一例である。その他、民と民のあいだに、人と人のあいだに、つねに恐るべき惡言非行の交換されつつあるは、人みなみずからよく知るところである。ああパウロの言をして僞りならしめよ。然らば人類とその統合とはいかに幸福なることよ。されどもパウロの言が事實そのままの記述なるを如何。ああ人類の罪と迷いは實に深きかな ── いにしえにおいてまた今において、然り、いにしえにおいてまた今において。
 
 十八節は「その日の前に神を畏るるのおそれあることなし」と言う。これ前囘に述べしごとく、全體を總括する語である。「神を畏るるのおそれ」とは、神に對する敬虔を指す。神とその聖旨、その審判を、心に感ずることを意味するのである 
 以上、パウロは舊約聖書の語句を巧みに排列して、「人類ことごとく罪あり」との自己の主張の裏書きとなした。
 しかしながら「この死の體より我を救わん者は誰ぞや」との叫びひとたび起るときは、すなわちみずから己れを救わんとせずして、他の、我を救う者を見出さんとするに至るときは、おそかれ早かれ「これわれらの主イエス・キリストなるがゆえに神に感謝す」との歡聲を擧ぐるに至るのである。そして自己の罪惡深重なるすら、なお罪をゆるされて救いに浴するを知りて、無限なるとともに、また誰人も救いに入り得るものなることをさとりて、強き傳道心はおのずからにして生起するのである。然らばすべての良きことの根柢に自己の罪の認識が存する。これなくしては、一も良きことは生れない。よろこびの花は黒き土より生い出ずるほかはない。人類すべての罪人なること、そして自己の罪人なること、このことはまず明らかにみとめられねばならぬ ── 己れのためにも、また人のためにも。ゆえにパウロは救いの奥義を説示せんとして、まずこのことにその鋭利なるペンを揮つたのである。
 
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