老人の日に寄せて

 老年の祝福

 老は老耄(ろうもう)ではない老熟である。そうあらねばならない。永く神に導かれた実験である。
 
信者はこれをもって神に仕え人に仕えねばならぬ。
これに優る幸福はない。ゆえに老はなるべく長くあることを欲する。
 
老年の一年は壮年の十年、青年の二十年に当る。生命長ければ恥じ多しとは不信者が言うことであって、信者が言うべきことでない。

汝の能力は汝の齢に従わん」とエホバはモーセをもって言い給うた(申命記33章25節)。能力の不足を歎ずるに及ばない。神はキリストをもって求める者にこれを下し給う。「モーセはその死にたる時百二十歳なりしが、その目かすまずその気分は衰えざりき」とある(同34章7節)。重責任を負ってその一生涯を送ったモーセにおいてすら然りであった。いわんや我ら凡信徒においておや。

然り、永久に若やぐ途は常に神に使われるにある
自己のために働く時に人は早く老衰する。常に神と共に働き、その聖心をなそうと努めて青年の若さを維持することができる。
リビングストンが言ったことがある、「常に神のために大望を懐き、大事を計画せよ」と。まことに然りである。区々たる自己の名誉や利益のために働いて、人は老衰すまいと欲しても、それはできない
(内村鑑三
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