ロマ書の研究第14講

 
第十四講 人類の罪(一)
-第三章一節 ~ 二〇節の研究 -
 3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
 3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
 3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
 3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
 3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
 3:6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
 3:7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
 3:8 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
 3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
 3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
 3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
 3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
 3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです(新改訳聖書ローマ人への手紙)
 
第一章十八節より本論に入りしパウロは、まず異邦人の罪を擧げ、次ぎにユダヤ人の罪を責めた。その論述の順序の正當なるは勿論、その筆法すこぶる巧妙にして、ユダヤ人を責めし場合のごときは、まず間接射撃をもつて威嚇し、次ぎに決河のごとき勢いをもつて肉迫する。。いずれにせよ、これをゆだねられたること、これユダヤ人優秀の第一點である。然らば第二、第三は如何。「ここに信ぜざる者あれど、そを如何、その不信は神の信を捨つべきか」と。これユダヤ人の第二の反問である。ここに「信ぜざる者」とあるは、キリストを信ぜざる者の意であるに相違ない。彼らはメシヤ降臨の約束にあずかれる民であるに、その約束に應じてキリスト來れば、これをキリストとして信ぜず、かえつて彼を十字架に釘()けた。しかも彼復活してそのキリストたることを實證し、使徒たちがその證人として立ちても、彼らの中にはなお彼を信じない者が多い。かく彼らの大多數が不信である上は、神もまたユダヤ人にかかわる将來の救いの約束を破りたもうであろうか。これ三節の意味である。そしてパウロはこれに對して「あらず、すべての人を僞りとするも、神を眞とすべし」(四節)と、すこぶる簡明なる解答を與えてゐる。これを原語のままに譯せば「斷じて然らず、神を眞實とし、萬人を虚僞者とせよ」となる。人はことごとく虚僞者である。そして神は絶對に眞實である。不信とか虚僞とかいう思想は、神という觀念と兩立しない。神がその約束に對して不忠實であるというごときは、神の本質上、到底あり得ないことであると、かくパウロは答える。簡單にして雄勁、白日の光のごとく強き語である。
パウロはまたユダヤ人にかわりて第三の質疑を起して言うた、「われらが不義、もし神の義を彰すとせば、われ何を言うべきか、怒りを加うる神は不義なるや」(五節)と。ユダヤ人は不義不信にして神にそむいてゐる。然るに神は義にしてとこしえに變らない。然らばユダヤ人の不信はたまたま以て神の眞實をあらわす機縁となつたのである。然りとせば、神はむしろユダヤ人に感謝すべきではないか。もし彼らに對して怒りを加うるならば、かえつて恩人に向つて鞭を加うるごとき不義となりはしまいかと。これ五節の意味である。あたかも放蕩息子あるがために親の愛心が發現されたとせば、その親はむしろその子に感謝すべきであつて罰すべきではないという論法である。この詭辨のごとき抗議を假りに設けて、パウロはこれに對して答えて言う、「然ることあらじ、もし然ることあらば、神いかにして世を審かんや」と。不義者を罰せざるごとき神ならば、いかにして世を審くことができようか。神が審判の神である以上は、到底不義者を罰せざるを得ないのである。
第四の反問は七節にある。「もし神の眞わが僞りによりてあらわれ、その榮光いや増さば、われ何ぞなお罪人とせられんや」とある。その意は五節とほぼ同樣である。そしてパウロはこれに答えて「かくあらば、われらが誣(そし)らるるごとく、善を來らせんとて惡をなすはよからずや、これを我らが言と言える者あり」(八節前半)と言うてゐる。當時パウロの徹底せる福音主義を誤解して、彼は「善を來らせんとて惡をなすはよし」と宣傳してゐるとなす輩があつた。けだしいかなる罪人といえども信仰によつて義とせらるという敎義は、淺薄者流の誤解を招きやすきほど革命的なものであつたのである。以上、パウロユダヤ人の立場より四個の抗議を出して、一々これに答うるところあつた。
 
第九節よりパウロはまた本論に歸つた。すでに異邦人はことごとく罪人と定まり、ユダヤ人もまたことごとく罪人と定まり、後者より出ずべき二、三の抗議をしりぞけて、ここにいよいよ人類全體を罪人と定むべきときとなつたのである。
 
義人あるなし、一人もあるなし
悟れる者なし、神を求むる者なし
みな曲りて、誰も彼も邪(よこしま)となれり
善を行う者あるなし、一人だにあるなし
その喉は開けし墓なり
その舌は詭辨を語り
その唇の下にはまむしの毒あり
その口は詛いと苦きとにて滿つ
その足は血を流さんとして疾し
破壊と災難とはその道にのこれり
彼らは平和の道を知らざるなり
神を畏るるのおそれ、その目の前にあるなし(と、しるされたるごとし)
これは詩篇イザヤ書等の各處より聖句を引き來つたものである。そして注意すべきは、これが聖句ある順序を追うて擧げたるものであることである。最後の句は、第一の句とはるかに照應するものにて、「義人あるなし」の理由として「神を畏るるのおそれ、その目の前になければなり」と言うのである。そしてそのあいだにはさまれし十句は「義人あるなし」の説明というべきものである。すなわちこれは聖句を集めて一のまとまつた思想を開設したのであつて、筆者パウロのあざやかな手腕は驚歎のほかないのである
 
義人あるなし、一人もあるなし」は、萬人有罪の事實の總括的斷定である。「エホバ、天より人の子を望み見て、悟る者、神を探ぬる者ありやと見たまいしに、みな逆(そむ)き出でて、ことごとく腐れたり、善をなす者一人だになし」と詩篇第十四篇にある。然り、エホバ、天より人の子を望み見るときに、いかで一人として義人があろうや。ああすべての人は罪人である。義人は一人もない。かつて一人もなかつた。今も一人もない-- 至聖なりし、彼ナザレの人を除いては。