ロマ書の研究第13講

 
第十三講 ユダヤ人の罪(二)
-第二章の研究 -
 
21節 このゆえに、およそ人を審くところの人よ、汝、言いのがるべきなし。汝、他人を審くは、正しく己れの罪を定むるなり。そは審くところの汝も同じくこれを行えばなり。
とある。まず注意すべきは、審判に公私の別あることである。
 
これに反して、私の審判はゆるされない。私情より出ずるところの、何ら公義にかかわりなきところの審判は、神のゆるしたまわざるところである。これ明白に罪である。「人を議することなかれ」と、主はこれを誡めたもうた。汝、他人を審くは、正しく己れの罪を定むるなり」とパウロは言うこれ、人を審くつもりにて發する言は實は自己を審いてゐるのであるという意である。たとえば「何某はかくかくの罪を犯せり」と言定するは、すなわち「我はかくかくの罪を犯せり」と言うとひとしいのである。刃をふるつて人を刺さんとするは、實は自己を刺すことである。實に人を審きてその罪を定むるは、自己を審きてその罪を定むることである。その理如何、パウロは言う、「そは審くところの汝も同じくこれを行えばなり」と。これ實に人間の心理を穿てる言であるけだし人が他を審くは、多くは自己の心に同一の罪の經驗ある場合である。人は自己の罪をみずからよく知る。行いとしてあらわれたる罪は他人にも明らかに知らるれど、自己心中のひそかなる罪は、自己のみこれを知るのである。そして自己のこの罪をひとりみずから恥じかつ厭うのである。然るに人ありて、これと同罪が陽(あらわ)に外に出で一なる罪を犯したるらしき場合には、彼はあたかも自己の心に秘めたる自己のたるごとき感を起して、それに對する嫌惡の情がはげしく心中に醸さるるのである。そしてついにその人を審きその罪を定めずしては滿足しないのである。されば人の罪を定むるは、實は自己もこれを犯した經驗のある場合が多いのである。されば人を審きてその罪を定むるは、實は己れの罪の告白であると見ることができる。ここにおいてか「人を審くは正しく己れの罪を定むる」ものなることを我らは知る。ゆえに「およそ人を審くところの人よ、汝、言いのがるべきなし」である。
 
二節には「かくのごとく行う者を罪する神の審判は眞理にかなえりとわれらは知る」とある。
 
なお三節以後十六節までは、行いを標準とするところの神の審判の提唱である(前講參照)。
 
そして十六節には「それ審判は……神イエス・キリストをもつて人のかくれたることを審かん日に成るべし」とある。全體を通讀してきわめて明瞭なることは、パウロのいわゆる審判は來世の審判なることである。現世においても神の審判がないのではない、しかしそれは未完成のものである。
ゆえに現世だけをもつて審判の範圍とするときは、その審判はかなり不公平として終るのである。しかしながら、眞の審判は「神、イエス・キリストをもつて人のかくれたることを審かん日に成る」のである、すなわちこれ未來の裁判である。そのとき、綿羊と山羊とを分つがごとく人類は二分せらると主は敎えた。そのとき、父がその独り子をもつてするこの裁判は完全にしてかつ最後的の裁判であるある者はこのときよりその運命をとこしえに拓かれ、ある者はとこしえに閉じらるるのである。おそるべきその日よ!惠まれたるその日よ!
審判と、それにともなう怖れとは、宗敎の缺くべからざる要素である今や人は來世を思惟するを好まず、ましてその審判をや。キリスト信者と稱し、佛敎徒ととなうる者さえ、多くは來世と審判とに心を用いようとせぬのであるかくて宗敎は現世だけのものとなつてゐる。しかし元來「死あるところ宗敎ある」のであつて、宗敎なるものはその本質上、來世的たらねばならぬのである。來世を説かぬ宗敎は、鹽がその味を失いしものである審判の怖れなきところに眞正なる宗敎心は起らないこのことを認めぬ者には第二章前半の眞意はわからない。審判をこの世のみのことと誤想する人には、パウロのこれらの言はただ一の謎たるのみである。
 
それは、來世的信仰のもつとも旺盛なりしときが、その宗敎のもつとも純正かつ盛んなりしときであつたという一事である。。かの法然親鸞日蓮らの俊哲が蹶起(けっき)して、ひとしく寂光土の榮光と地獄の苦患を説きしときにおいて、いかに宗敎的生命がわが日本民族のあいだに芳烈なりしよ。
來世を怖れて初めて深刻なる宗敎心起るバンヤンと言い、ルーテルと言い、ジョナサン・エドワーズと言い、およそ偉大なる宗敎家は、一度は審判の恐怖にいたく心をおびやかされし人である審判を怖れずして眞の敬虔は起り得ない神を畏れ未來を怖るるに至つて、初めて人の魂は目醒めたのである英國の大政治家グラッドストンは、自己のなしたる唯一の仕事らしき仕事は、バットラーの『アナロジー』(Analogy)の編纂であるとなしていた。そしてバットラーのこの書は來世存在の哲學的説明であるのである。以てグ氏の心に存せし現世のことと來世のこととの著るしき輕重の差を知るのである。
 
すでに來世あり、從つて永生と滅亡とあり、從つて未來の審判ありとせば、我らいかにしてこの怖るべき審判の日に對すべきであるか。罪ふかき己れを思い、行いをもつて裁く神の審判を思うては、我らはふかき絶望と萎縮にとらわれざるを得ない自己一身の力をもつてしては、到底罪をことごとく贖いて全き聖潔に至ることはできない。しかしながら、罪の醜姿を擔えるままにて神の審判の座に立ち得るであろうか。ここに深き恐怖がある。しかしこの恐怖ありて福音の貴さはわかる。この恐怖ありて初めて救いの深みに徹する。これなきときには、人に深き信仰は起らないのである。
キリストは何がゆえにかのごとき痛烈なる苦難を味わい、かのごとき絶大なる犧牲を拂つたのであるか。そは言うまでもなく人類を救わんがためである。そして人類の救いとは、その徹底的意味においては來世の榮化である換言すれば審判の座に堪えて、かぎりなき榮光の境に攝取せらるることである然るに人類は今やこの榮えに入るべくあまりに罪に深く沈んでゐる。堕落は洪水のごとく世界の全野を蔽うてゐる怖るべき未來の審判に堪え得る人とては一人もない。而してイエスの敎えにしたがつて悔い改めの幸福に入る者はきわめてすくなく、多くは神の獨り子なる彼をしりぞける
 
エスは深くこのことを憂えた。ついに人類の深罪を己れに負いて、自己を犧牲の祭壇にのぼせ、苦きさかずきを心ゆくばかりに味わいて、以て人類の罪をあがなわんとした。この悲壯なる心事の下に、神の獨り子は一介の死刑囚として死した。何らの曲事(ひがごと)ぞ!さあれこの曲事のために人類救拯の道は開かれたのである。
この十字架を我らが仰ぎ見ることには種々の意味がある。ある意味においては、信仰生活の全部は十字架を仰ぎ見ることであると言い得る。しかし特に十字架に據るべきは、怖るべき審判の座に臨みてである。そのとき何らおのれに恃むべきものなく一言の言いのがるべきもない。ただ主の十字架あり、これ我らの唯一のかくれ場である。我らは彼の十字架のかげにかくれて審判の筵に臨むのである。我らは千歳の岩にわが身をかこまれて審判の日に至るのである。そして十字架に據り十字架を仰ぐは眞の信仰である。そしてこの十字架を仰ぎ見る眞の信仰は、審判の恐怖より生起したものである
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而して彼を滅亡の非運より救わんための唯一の道は、彼に福音の救いを示して、彼をしてこれを信ぜしむることである。このほかに人を救う道はない。かくて傳道心は審判の恐怖のために燃ゆべきものである。この恐怖を己れのためにも人のためにも感じない者に、眞の傳道心の起るはずはないのである
 
パウロの敎えの背景として、彼の強き來世觀を見なくてはならぬ聖書は地獄の火に照して讀むべきものであるという言があるまことに來世のするどき感覺、審判の強き恐怖をもつてして、聖書を眞に讀むことができる。ロマ書第二章のごときは特にそうである。これ忘るべからざる重要事である
17 汝もしユダヤ人ととなえ、律法をたのみ、神あるを誇り
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24 神の名は汝によりて異邦人のなかに涜されたりと録(しる)されしがごとし。
 
まことに火のごとき弾劾の叫びである。律法において、宗敎的眞理と靈的知識の則を有すとなしてゐる。然り、眞正のユダヤ人は眞に然るべきである。さりながらみずから選民と稱するも、その實際上の資格においてこれを缺きながら、誇るべき實なくして誇る者は如何。これらは僞りのユダヤ人でないか。汝は右のごとく誇るといえども、人を敎えて己れを敎えず、人に盗むなかれと言うてみずから盗みをなし、人に姦淫するなかれとさとしてみずから姦淫し、偶像を憎むもみずから偶像の殿にささげられし物を私し、律法を誇るもみずからこれを犯して神を輕しめてゐる。ああかくしてユダヤ人という汝の名は異邦人のあいだに汚さるるのである
パウロは右のごとく、その同族たるユダヤ人を責めた。彼もし今の世によみがえりしならば彼はこのままの語をもつて、その同族たるキリスト敎徒を責むるに相違ない
 
讀者もし右の語の中の「ユダヤ人」をキリスト信者と改め、「律法」を福音と改め、「異邦人」を不信者と改めて讀むときは、大體においてそれが今日のいわゆるキリスト信者を責むる語としてすこぶる適切なるをおぼゆるであろうみずから信者をもつて誇りて不信者を蔑視しながら、實は不信者とひとしき、またはなおはなはだしき醜さを呈してゐる者が今や世界にすこぶる多い。彼らはみなパウロ時代のユダヤ人である。正にパウロのこの叱責を受くべき輩である。
 
もし右の語のうち「律法」を福音と改め、「割禮」を洗禮と改むるときは、今日のキリスト敎徒に反省をうながすに足るすこぶる有力なる語となるであろう。キリスト信者にしてかえつて福音の本義を行わず、不信者にして不知不識のあいだにこれを行う者あるときは、甲ははるかに乙に劣るものであつて、むしろ甲は事實上の不信者であり、乙は事實上のキリスト信徒であると言うべきである。
外部的にユダヤ人たるも、眞のユダヤ人ではない。外部的に身に割禮あるも、眞の割禮ではない。かえつて内部的にユダヤ人たるものが(それがどこの國人たるにもかかわらず)眞のユダヤ人である。由來、割禮は靈にありて儀文にない。心に刻まれしものが眞の割禮である。儀文の規定どおりに行いしとて、これを眞の割禮と言うことはできぬ。かくのごときはそもそも末の末である眞の割禮は心にある。心の割禮は眞である。--かくパウロは論斷して、儀文と形式と環境とにたのむユダヤ人の濛をひらかんとしたのである。我らはパウロのこの靈的の深み、人類的の廣さに對して、ふかき敬意を拂わねばならない。
我らはまたこれを左のごとくに書きかえて、これを今日に活かすことができる明(あらわ)にキリスト信者たるも實のキリスト信者にあらず、明(あらわ)に身に洗禮あるも實の洗禮にあらず。かえつてひそかにキリスト信者たる者は實のキリスト信者たり。また洗禮は靈にありて儀文にあらず。心の洗禮は實なり。その譽れは人によらず、神によれり。
キリスト信者とは誰ぞ洗禮を受けて敎会員となりし者かならずしも信者ではない。内部的に神の聖旨(みむね)を行う者 ── 事實的にイエスを主として信從する者 ── それがキリスト信者である(よし形式上の形と名は何であつても)。眞の洗禮は靈(聖靈)の恩化に浴せしことを言うのであつて、儀文の形式に從つて受けしものではない。ゆえに心の洗禮のみが眞の洗禮であつて、その譽れは人によらず、神による人の判斷如何にかかわらず、神はこれを賞(め)でたもうのである。人は外を見、エホバは内を見る。外を見る人の輕侮または怪訝(かいが)は數うるに足らず、内に向つて與えらるる、神の嘉賞のみ貴いのである。
 
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