ロマ書の研究第12講

 
第十二講 ユダヤ人の罪(一)
第二章の研究 -
 
第二章においては、自己の同胞たるユダヤ人の罪惡を擧示せんとするのである。。そして人は救われんためにはまず罪を示されねばならぬ。罪人救濟のよろこびを傳える福音は、罪人たるを自認せる人にのみ受得せられる。パウロはその愛する同胞を福音の滋雨に浴せしむべく、まずこれを弾劾するのである。まして彼は「世の人こぞりて神の前に罪ある者と定まらん」(三章十九節)ことをその立論の第一段とするのであれば、すでに異邦人の罪惡を指摘したる今は、當然ユダヤ人の罪惡を指摘すべき順序となつたのである。
 
その異邦人に向つて、パウロはまずその罪惡の深重と頽敗の激甚とを、豪宕激越なる語調をもつて摘示したであろう。この激烈なる叱責を浴びて、彼らは一言もなくして面を伏せたであろう。その間(かん)、聽衆中のユダヤ人はいかに小氣味よく感じたことであろう。平生「選民」をもつてみずからを高うし、神と律法あるをもつて誇り、これなきゆえをもつて異邦人を蔑視しいたる倨傲にして執拗なるユダヤ人は、パウロのこの異邦人排撃に接して、心ゆくばかりの痛快さを味わつたことであろう。
 
第二章において、我らはパウロの特異なる論法に注意する。この章はその十七節に至つて、明らかに筆の調子が變つてゐる。十六節までにおいては、パウロは「これらのことを行う者を審きて、同じくこれを行う人」を責めてゐる。誰人と特定的に言わずして、ただ一般的にこの種の人々の矛盾と僞善を指示してゐる。
 
 
まず一節より三節までを、左にしるして見よう。
1 このゆえに、およそ人を審くところの人よ、汝、言いのがるべきなし。汝、他人を審くは正しく己れの罪を定むるなり、そは審くところの汝も同じくこれを行えばなり。
2 かくのごとく行う者を罪する神の審判は眞理にかなえりとわれらは知る。
3 これらのことを行う者を審きて同じくこれを行う人よ、汝、神の審判をのがれんとおもうや。
  
第一章末節には「行う」の語が三つあり第二章に入りても、三節までにこの語が四つある。邦譯聖書においてはつねに同一の語を用いてあるが、原語聖書においては、二つの異なつた文字を使いわけてゐるのである。
 
すなわち πρασσω(プラソー)と、ποιεω(ポイエオー)の二字を用いてゐる。そして英譯聖書は、前者を practise と譯し、後者を do と譯してゐる。プ
 
ラソーは、習性としての行爲にかかわる語であつて、習慣的にある事を行うことを意味する。すなわちある期間つづくところのその人の状態について言う語である。
 
これに反してポイエオーは、外にあらわれしその時その時の外部的行爲にかかわる語であつて、ある事を事實的になすことを意味する語である。すなわち前者は人の行爲を線として見たもので、後者はこれを點として見たものである。もし漢字の「行」が前者に當り、「爲」が後者に當るとするならば、まず第一章三二節を左のごとく改めることができる。
 
 すべてこれらを行う(習性として)者は、死に當るべき神の判定(さばき)を知りて、なおみずからこれをなす(個々の行爲として)のみならず、またこれを行う(習性として)者をも喜べり。
 
すなわちユダヤ人は異邦人が習性的に行う罪惡を責めながら、自分らも個々の行爲として同一の罪惡をなすのである。
 
彼は、彼らが神の「ゆたかなる仁慈(めぐみ)」に狎(な)れて、その仁慈のゆえに、彼らの罪惡も無限にゆるさるるがごとく思惟し、またはその仁慈たるをさとらずして、神に罪を罰する力なしと誤想せる彼らの淺愚と驕慢とを責める。
 
彼らは神の仁慈が彼らを悔改せしめんがための聖慮に出ずるをさとらずして、ますます心を頑なにして、罪を悔い改むることをしない。
 
 
次ぎの六節において、彼は「神は人の行いにしたがいて、各人にその報いをなすべし」との強き斷定を與えたるのち、次ぎの七節、八節において左のごとく言う。
 
7 耐え忍びて善を行い、榮光と尊貴と不朽とを求むる者には永生をもて報いん。8 されども争闘をなし、眞理にしたがわず、不義につく者には、報ゆるに憤りと怒りと患難辛苦とをもつてす。(このうち患難辛苦の語は九節に屬すべきものであるが、便宜上八節の中に含めておいた)。
七節は右の譯にてあやまちなしと思わる。ただ「報いん」の譯字が ── 六節の「その報いをなすべし」とともに ── やや報賞的の臭味を傳うるを遺憾とする永生は決して善き生涯の報酬として與えられるものではない永生の賦與は徹頭徹尾「恩惠」であるしかしこの節においては、永生の賦與が報酬であるか恩惠であるかは問題としていない。問題はただ善き生涯を送りたる者に父より永生を與えらるることを主張するにあるのである。
 
 
然るときは「それ天の父はその日を善き者にも惡しき者にも照し、雨を義しき者にも義しからざる者にも降らせたまえりという主の貴き語(マタイ傳五章)と矛盾しないであろうか。また人の患難辛苦はことごとく自己の罪惡の結果であろうか。かくて罪惡と患難の關係についての面倒なる問題がここに生起せんとするのである。これは現行邦語聖書の誤譯より起つたことであつてこの節は改めて正に次ぎのごとく譯すべきものである。
 
されど争闘をなし、眞理にしたがわず、不義につく者には、憤りと怒りと患難辛苦とあらん。
 
神は不義者に憤りと怒りと患難辛苦とを報いようとはしない。しかし不義者には不義の自然の結果としてこれらが臨むのである。神は有意識的に彼らを苦しめようとなしたまわない。しかし不義はその本性上、おのずと神の憤りと怒りと患難辛苦を招くものである特別に刑罰が降らずとも、自然と刑罰が不義にともなうのである。不義者は神に罰せられずとも、自分で自分を罰してゐるのである。永生は神より與えらるるもの、刑罰はみずからこれを招くものである。
 
 
眞理につくか不義につくか、人はいずれか一を採り得るのみである。憤りと怒りと艱難辛苦とは、「ユダヤ人をはじめギリシア人、すべて惡を行う人におよぶ」のである。
  
異邦人といい、ユダヤ人という。事は千九百年の昔に屬して、今日の我らにかかわりなしと言うなかれ。神を有しその律法を持てる者は、いかなる時代にありても「ユダヤ人」である。神を知らず、その律法持たざる者は、何時の世にありても「異邦人」である然らば今のユダヤ人は誰ぞ、これいわゆる「信者」である。今の異邦人は誰ぞ、これいわゆる「不信者」(または未信者)である。そして信者たると不信者たるとの別なく ── 洗禮を受けたと受けぬとの別なく ── 敎會員たると然らざるとの別なく ── およそいかなる人たりとも、善を行う者には永生與えられ、惡を行う者には滅亡來ると論斷してはばからないであろう。
 
今日の信者が、神を知るということ、福音を持つてゐるということ、敎會に屬してゐるということなどをたのみとして、天國の榮光期して待つべしとなし、不信者を蔑視して地獄の子となすがごときことあらば、そは迷いふかき驕慢である
 
人の環境は決してその人に榮光または滅亡を與うるものではない。人をとこしえに活かしまたは殺すものは、その人の心のあり場處、およびそれより當然生るる生活の状態である。我らは今日パウロの語を己れに當てはめて三思すべきである。然らば人は行いによつて救わるるか、
  
まず注意すべきは行いによる審判が聖書的原理の一なることである。そはわれらはかならずみなキリストの臺前(みまえ)に出でて、善にもあれ惡にもあれ、おのおの身においてなししところのことにしたがい、その報いを受くべき者なればなり」(コリント後書五章一〇節)とあり、パウロ文書のほかにも「彼らおのおのその行いにしたがいて審判を受けたり」(ヨハネ黙示録二〇章十三節)などの語がある。またイエス自身の敎えとしても、ヨハネ傳には「善事をなしし者は生(いのち)を得るによみがえり、惡事をなしし者は審判を得るによみがえるべし」(ヨハネ傳五章二九節)とあり、かつ最後の審判を描くや、かならず行いによる生と死とを説くのである。マタイ傳第七章二一節以下を見よ。また第二五章十四節以下の比喩、および三一節以下の審判の光景を見よ、このことはきわめて明瞭ではないか。行いによる審判が聖書的原理の一なることは一毫の疑念をはさむ餘地もなく確實である。
 
信仰は眞の信仰でない。彼らは信仰ありと誤想しまたは誇稱して、罪惡の底なき沼におぼれてゐるのである。
 
すなわち行いは信仰の試金石である。信仰の眞僞を知るには行いをもつてするほかはない。樹はその果をもつて知らるるのである。眞の信仰はかならず善き行いを生み、僞りの信仰はこれに反す然り、人は信仰によつて救われる。しかし僞りの信仰によつては救われない眞の信仰によらでは救われないそして眞の信仰はかならず行いをともなう。この意味において、人は行いによつて救わると言い得る。審判は行いによつて加えられるのである。「それキリスト・イエスにありては、割禮を安くるも受けざるも益なく、ただ愛によりてはたらくところの信仰のみ益あり」とパウロはガラテヤ書において言うた(五章六節)。
 
また言うた、「それキリスト・イエスにおいては、割禮を受くるも受けざるも益なく、ただ新たに作られし者のみ益あり」と(六章十五節)。
 
愛によつてはたらくところの信仰 ── すなわち善行としてあらわるるところの信仰 ── これが眞の信仰である。
 
この意味において、人は善行によらずしては救われないのである。すなわち不義につく生活を去りて眞理につく新生活に入り、その新たに作られし結果として、當然善果を結ぶこと ── このことがあつて人はついに救われるのである
 
信仰が善き行いを産むに至らぬうちはむなしき信仰である。偏りの信仰でなくば、死せるまたは眠れる信仰である。眞の信仰は眞の行いをともない、眞の行いは眞の信仰にともなう。
 
畢竟これ同一事象の表と裏である。ゆえに人は信仰によりて救わる、また人は行いによりて救わる。ともにこれ眞理である。何となれば、要するにこれ同一の原理の異なれる表現たるにすぎぬからである。
 
の意味において、人はその行いをもつて審かるるのである。例を擧げてこれを説こう。
 
人をゆるすは至美にしてまた至難なることである。さりながら、人をゆるし得ざる者が果して神の赦免を贏(か)ち得るであろうか。人をゆるし得るに至らずしては、まだ眞に救いに浴した者とは言い得ない。厳密なる意味においては、人をゆるし得ざる者はキリスト信者ではない。
 
「神は人の行いにしたがいて、各人にその報いをなす」ところの神であれば、人をゆるし得ざる者は、おそらくは榮光の中に攝取せられないであろう。
 
しかし憂うるを要せず、我らに眞の信仰與えらるるときは、人をゆるすにおいて難くないのである。キリストに義とせられて、彼の靈が我に宿るに至れば、我は人をゆるし得るに至る。
 
自己一人の努力抑制をもつては到底人をゆるし得ないものが、このキリストの靈、心に充つるときは、おのずからにして人をゆるし得るのである。問題は、彼の靈が我に宿るか如何にある。彼の靈が我に宿るときは、我の難しとすることを我にもあらで行い得るのである
 
これ汝がこれを行うにあらず、彼が我にありて行うのである
使徒パウロはその實驗として言うた、「われはわれに力を與うるキリストによりて、すべてのことをなし得るなり」と。パウロのキリストはまた我らのキリストである。我ら眞の信仰を抱き、眞に彼を我が心に迎えまつりて、彼にありてもろもろの善をなし得るに至らねばならぬ。我らひとえに彼を仰ぎ見て、彼の靈を眞正面よりゆたかに受くる者とならねばならぬ。神はかならずこの願いを充たしたもうのである。
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