ロマ書11講

 
第十一講 異邦人の罪(二)
-第一章二八節 ~ 三二節の研究 -
 
 
ロマ書第一章十九節 ~三二節は、前講において説きしごとく、三段に分つことができる。すなわち左のごとくである。
第一段(十九節~ 二三節)、悟性のみだれ(偶像崇拝
第二段(二四節~ 二七節)、情性のみだれ(汚穢)
第三段(二八節~ 三二節)、意志のみだれ(不義)
 
すなわちパウロは 異邦人の罪を悟性、情性、意志三者の混亂においてながめたのである。そしてて悟性のみだれ、すなわち偶像崇拝をもつて、情意兩者混亂の原因と見なしたのである。眞に深刻にして正確なる心理的解剖と言うべきである。いま意志の亂れを述べたる二八節以下を見るに、左のごとくしるされてゐる。
  
聖書の言は、何事に關せるものなりとも、聖書の言なるがゆえに研究すべき値いがある。のみならずこの罪惡指摘は、罪惡指摘のための罪惡指摘ではない、赦免の恩惠にまでみちびく中道としての罪惡指摘である。換言すれば、罰せんがためのものにあらずして、救わんがためのものである。
 
罪惡の醜状を描くこと、かくのごとく赤裸々なるは、パウロにも似合わぬと言う人があるかも知れない。さりながら、赦免を深刻に味わいたる人は、罪を見ることもすこぶる深刻である。赦免の味わい方淺き人は、罪に對する見方もすこぶる緩慢である罪惡がいかに恐ろしきものなるかは、その赦免の恩惠に接して初めて知るのである。ふかくこの恩惠を味わいたるパウロが、罪惡弾責において峻烈と見ゆるはもとより當然のことである。ましてそれが殺すためならで活かすための罪惡擧示なるをや。
二八節は、異邦人の意志昏亂の内的意味をもつとも合適にかつ深刻に言いあらわしたものである。
 
二九節 ~三一節には、いくつかの罪惡が列擧されてある。パウロはかく異邦人の罪惡を擧示しつつ、彼らの良心に向つて肉迫するのである。これを我らは罪の目録と名づける。
 
マルコ傳第七章二一節、二二節 ── 人の心より出ずるものは、惡念、淫行、窃盗、殺人、姦淫、貪婪、邪曲、詭計、好色、嫉妬、誹謗、傲慢、愚痴なり。
 
ガラテヤ書第五章十九節 ~ 二一節 ── それ肉のおこないは顯著なり、すなわち淫行、汚穢、好色、偶像崇拝、詛術、怨恨、紛争、嫉妬、忿怒、徒黨、分離、異端、猜忌(そねみ)、酔酒、宴樂などのごとし。
 
ロマ書の罪の目録は、數もつとも多くして、二十一の種目をかかげてゐる。
  
罪の總稱=不義
罪の總体=惡意、惡、むさぼり
嫉妬の罪=嫉妬、殺意、紛争、詭計、惡念
讒誣の罪=讒言、そしり(怨神?)
倣慢の罪=あなどり、高ぶり、誇り(惡事を企つ)
不實の罪=不孝、無知、違約、無情、無慈悲
 
パウロはまずすべての不義」と言いて、罪の總稱をかかげたのである。そもそも二九節 ~三一節は、人の意志昏亂の結果としての罪業をしるしたものである。そして意志の昏亂は、人間が相互に對する不義としてあらわれる。いわゆる倫理上の罪である。ゆえにこれを總稱して「すべての不義」と言うは、すこぶる適切であると言うべきである。貝原益軒が「仁とは善の總名なり」と言いて、仁をもつてすべての善を一括せしと相似て、パウロはここに不義の一語をもつて人間相互に對して犯す諸罪を一括したのである。かく、まず概括的の語をかかげ、然るのち分析的説明に入るは、パウロの特徴である。
 
次ぎにパウロは「惡、むさぼり、惡意と言うた。すべての罪惡はこの三つの中に含有されてゐる。パウロが嫉妬以下にしるしたる十七罪は、この三者の詳密なる分類と見ることができるのである。その第一類は「嫉妬の罪にして、その中に嫉妬、殺意、紛争、詭計、惡念の五種をふくんでゐる嫉妬は普通にいわゆる嫉妬である、すなわち嫉妬系の罪の中の主體である。
 
その第一は紛争である。嫉妬の、外に發して、殺意ほどはなはだしきに至らぬときは、紛牢としてつづいてゆく。小は個人間の争いより、大は國家間の争いに至るまで- その間に家と家との争い、村と村との争い、政黨と政黨との争い等、いくつも紛争が介在する -多くは嫉妬の結果である。口をもつて、筆をもつて、剣をもつて、その他種々の道をもつて、人はその競争者に對する嫉妬のゆえに紛争にふけるのである。次ぎは詭計(英語のdeceit)である。僞りをもつて人をあざむくこと、陰険なる手段をめぐらすこと等を指す
 
次ぎにパウロ讒言(ざんげん)、そしりの二罪をかかげた。これを視指して  「讒誣(ざんぶ)の罪」と見ることができる謹言とはいわゆる蔭口である。公然として人をののしるにあらず、かげでこそこそと人の惡評をすることである。これひそかに人の耳より惡毒を注入することであつて、間接に他を傷つける罪である。これに對してそしりとは、公然、人の惡を傳えて、正面より人の名譽と地位を傷つけることである。すなわちひそかに行う讒誣が讒言であつて、公けに行う讒誣がそしりである。ともに人を傷つけんとの惡意より出でし罪である。傲慢系のこの二つの罪は、パウロをつねに取りかこんだものである。
 
次ぎにかかげらるるは「神を怨む」罪である。ゴーデーは「神を憎む者」と見て、最大なる傲慢すなわち神の上に己れを置く者を指すと解してゐる次ぎは「傲慢の罪にして、その中に三つの罪がふくまれてゐる。あなどりとは人を賤視し、人に辱めを加え、人に非禮のことをなし、人を愚弄して快とすろ罪を言う
 
傲慢罪が惡意的に人に向つて發せられたものである。高ぶり(狭義に言う)はいわゆる高ぶりである。すなわち自己の優越の感を心の中に抱くことである。高ぶりが心の中にとどまつてゐるあいだは、別に人に對して害をなさぬのであるが自己自身はこれがために種々の損害を受け、間接に種々の不義のみなもととなるのである。また外に發してあなどりとなつて、人を害しやすきものである。そしてこの傲慢を、口をもつて外に發表するが誇りである。己れを高しとし、人をあなどり、大言壯語してみずから快とする罪である。高ぶりに對してこれを誇りと言うことができる
 
人は傲慢の結果、往々にして惡の遂行におちゐるものであるゆえ、これを傲慢系の罪と見て大過なかろうと思う。一生涯のあいだ、他人に對して惡事をなそうと謀りつづけることを意味する(ゴーデー)。まことに罪惡のはなはだしきものであつて、惡魔的であると言うべきである。
 
不實の罪」である、すなわち誠實缺乏の罪である。この系統の罪の
第一は不孝である。父母に對して從順ならざること、實意の足らざること、愛の缺乏せることである。
第二は無知である。これは法にかなわざる氣ままな行爲に出ずることであつて、社會の秩序安寧をみだす結果を生みやすきものである。社會に對する誠實缺乏の罪である。
第三は違約である。約束をほしいままに破り、信任を裏切ることであつて、友人同僚らに對する不實の罪である。
第四は無情である。これは人間自然の愛情を缺けることを意味する語であつて、親が子に對し、子が親に對し、夫が妻に對し、妻が夫に對し、兄弟が相互に對して實意と愛を缺けることである。すなわち家族間における誠實缺乏の罪である。
第五は無慈悲である。これはいわゆる不人情の罪であつて、冷酷を意味する語である。以上がパウロの「罪の目録」の大體の説明である。
 
パウロは右のごとく二十一種の罪惡を摘示したのちにおいて、一の大なる斷案を下して言うた、「すべてこれらを行う者は、死罪に當るべき神の判定(さだめ)を知りて、なおみずから行うのみならず、またこれを行う者をも喜べり」と。これ三二節である。忘るべからざることは、これが異邦人の罪を責めし箇處の最後の語であることである。さらばパウロのこの言はあまりに厳酷ではないか。異邦人は果してこれらを行う者は死罪に當るべき神の判定を知つていたのであろうか、これ明らかに一の問題である。
 
ここに「死罪」とあるは、むしろ單に「死」とすべきである。、前掲の二十一種の罪惡中、肉體の死(すなわち法律上の死刑)に該當すべき罪はきわめてすくないからである。而して異邦人といえども、不義の結果は靈魂の滅亡を生むべしとの神の判定を決して知つていなかつたのではない。彼の中の哲人、賢者は、このことを知りてこのことを民に敎え、彼らの中の宗敎家は、死後の刑罰を説きて現世における道義のすすめをなした。歴史は明らかにこのことを我らに示してゐる。のみならず、およそ人間としての本具の感覺の上に、神のこの律法の存在はおのずと察知し得らるることであつた然り、彼らは確かに不義を行う者に滅亡の臨むべしとの神法を知つていた然るに、彼らはこのことを知りながら、これらの不義をあえて行うのみならず、これを行う者をも喜ぶという昏迷の中に住んでゐる。ああその迷いのふかさよ!罪の恐ろしさよ!パウロは半(なかば)の憤りと半のあわれみとをもつて斷案を下したのである。
 
我利のためにすべてを犧牲にしてはばからざる社会のみにくき姿は、その各種の不義が、その人々を靈魂の滅亡にみちびくだけの充分の力あることを我らに敎える。世の人は、この刑罰としての死を豫感しあるいは知悉しつつも、渇ける者が水を呑むがごとくに、あえて不義を呑みてはばからぬのである。そして我とひとしく不義を行う者あれば、これを見て大いに喜ぶのである。これ實にパウロ時代の異邦社会の實状であり、また今日の不信社会の實状である。パウロの言は決して過酷ではないのである。
 
我らはパウロの數えし二十一の罪をことごとく犯す者でないかも知れぬ。しかし五十歩百歩の争いはこの際不用である。とにかく我らは明らかに不義を犯す者、我らは罪人である。然らばいかにすべき、甘んじて滅亡の未來を待つべきか。そは堪えがたい。然らば死を變えて生となすの工夫は何處にあるか。これ重大なる疑問である。
 
そして勿論この疑問に答えるものは聖書である、福音である。我らはイエスの十字架を仰ぎ見て罪の赦免を得るとともに、またイエスを仰ぎ見て罪を脱するの道に入るべきである。自己の努力いかに強烈を加うるも、我らは罪を取り除くことはできない。主イエスを心に迎えて、彼が我の主人公となつたとき、彼が我にありて--換言すれば、我が彼にありて--罪を脱することができる、義を行うことができる。 心に神の國が建設せらるるとき、我らはおのずと怨恨を忘れ、嫉妬を除かれ、傲慢は失せ不實よりはなるるに至る。ゆえに我らは自力をもつて一つ一つの罪より脱しようとすべきでない
 
これは百年河清を待つの類にして、努むれば努むるほど、かえつて深みに陥没することである我らはただ主イエス・キリスト--神の獨り子にしてまた人類の主なる、そして惡魔を征服し、罪と死の権威をほろぼして勝利の榮冠を得たる彼イエス・キリストを信じ、頼み、仰ぎ見るべきである。わが心靈の戸を充分に開きて、彼をわが心に迎え、彼をして全く我を占領せしむべく計ればよい。そのとき神の靈我を環り照して、我は不義を脱し善を行い得るのである。
 
キリスト敎は果して今の社会において實行し得らるべき宗敎なるか、その道德律は到底現代のごとき物質本位の社會において守り得べきものでないのではあるまいかと。これ堕落せる現代がその代表者たる識者をして發せしむる言である。答えて言う、然りと、また言う、否なと。キリスト敎道德は、到底我らが自己の力をもつては實行し得るものではない。しかしながら、ひとたび我らに眞の信仰起りて、イエスの靈來つて我らに代るに至らんか、これ自然と實行し得らるることである。
 
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 軽井沢・雲場池
本11講の中心は「心に神の國が建設せらるるとき、我らはおのずと怨恨を忘れ、嫉妬を除かれ、傲慢は失せ不實よりはなるるに至る。ゆえに我らは自力をもつて一つ一つの罪より脱しようとすべきでない。」と見た。