ロマ書第10講

 
第十講 異邦人の罪(一)
- 第一章十八節~三二節の研究 -
ロマ  1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
 1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり,
 1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
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パウロは第一章劈頭において、まずあいさつを兼ねて自己紹介をなし、次ぎに
八節~十五節において、感謝をもつて初めてロマ訪問の計畫について語り、
十六、十七節に入りてはおのずからロマ書の主題に移りゆきて、偉大なる語に包みて偉大なる思想を掲出した。
 
あいさつを終え、感謝を終え、問題の提出を終えて、ここにこの大書翰はその序言を終つたのである。されば第一章十八節よりいよいよ本論に入るのである。すなわち我らの用い來りし比喩によれば、本館第一に入るのである。
然らばこの大書翰の本論においてまず我らの會する語は何ぞ。人間救拯の福音を盛れる第一本館においてまず我らの眼を打つものは何ぞ。そは神の恩惠を傳うる語か。否な、神の怒りを傳うる火のごとき語である。
それ神の怒りは、不義をもて眞理を抑(おさ)うる人々の
すべての不虔不義に向いて、天よりあらわる。
と十八節は言う。まことにこれ吾人の意表に出ずることである。しかしながら、
 
福音はまず罪惡の指摘をもつて始まる罪の指摘あり
而して罪の悔い改めありしのちならでは、救いの與えらるる素地がない
 
福音の美屋は、陰惨なる罪惡指摘の土臺の上に立つ
美わしき花は黒き土より咲き出ずるほかはない。キリストの福音の傳えらるるに先きだちて、「主の道をそなえ、その路線を直く」すべく、バプテスマのヨハネの罪惡詰責がなくてはならなかつた。
罪を責めずしてまず恩惠を説くは、土臺なきに家屋を建つることである
 
「不義をもて眞理を抑うる人々」は、すなわちいわゆる罪人である。、
眞理を眞理として知りながらこれに從わず、不義を不義と知りつつこれに從う者、これすなわち罪人である。罪人自身はこのことをみとめないであろう。しかし罪より救われて神に生くるに至りし人は、自己の過去をかえりみて、一樣に認知するのである。
かかる人のすべての不虔(神に對してそむくこと)と不義(人に對して道德的に義ならざること)とに向つて、神の怒りは天よりあらわるるのである。あたかも子の不義に對しては父は怒らざるを得ざるがごときものである。
  
第一章十九節~三二節は、三段に分ちて見るを便とする。
第一段は十九節 ~ 二三節である。ここに異邦人の偶像崇拝の心理はすこぶる的確に擧示せられたのである
 
「人の知るべきところの神の事情」とは何を意味するか。その意味するところは、何ら特殊の天啓によらずして、自然に人に知らるるところの神的知識を指すのである。すなわち唯一の神の存在すること、およびその神の大體の性質(たとえば、善を愛し惡を憎むこと、またそのかぎりなき力の處有者なること等)は、異邦人のあいだにありてもきわめて明らかである神はすでにこれを彼らにあらわしたもうたのである。神は彼らに人たるの本性を與え、理性と良心とを與え、かつ宇宙萬物という材料を供して、彼らに神的知識を得せしむる道を開きたもうたのである。ことに彼らのあいだの哲學者、宗敎家、智者、識者ら、比較的優秀なる頭腦と感受性を有する者には、神に關する知識がある程度までは當然そなわるべきはずである。
 
然るに彼ら異邦の民は「すでに神を知りてなおこれを神と崇めず、また謝することを」しない。彼らは心に與えられおる眞理を我とみずから抑塞(よくさい)して、神をみとめつつしかも神を否認するのである。何者が彼らをしてこの矛盾に出でしむるか。その動機はさまざまであろう。しかし彼らが惡魔のささやきに聽從したる一事は明らかである。かくてその思いはみだれ、その心は暗くなり、みずから智者を以ておるも、實は愚者にして、朽ちはつべき人、および禽獣、蟲魚の像をもつて神を刻み、以て偶像崇拝の低卑と醜怪とに堕してゐる。これ實に彼ら異邦人の實状である。
 
見よ、ギリシア、ロマの多神敎を。彼らの神々は人のごとき情欲、放恣、復讐等に走るものである。これ「朽ちはてざる神の榮光を變えて、朽ちはつべき人」となすものではないか。また見よ、エジプト、カルデヤの動物崇拝敎を。牛、猫、蛇、鰐魚等を拝する彼らは正に「神の榮光を變えて……禽獣、昆蟲の像に似す」るものではないか。文化をもつて誇る民が、心靈問題におけるその愚は沙汰のかぎりである。而して心靈問題は人生の最根本なる問題である。源濁りて末清きはずがない。心靈において愚なる彼らは、そのすべてにおいて愚なのである。
 
パウロ偶像崇拝の心的經過を右のごとく描いたパウロは罪に生れて罪に住む人間の心の傾向をながめて、一神の知覺より偶像崇拝への堕落を、その心の中の經過としてみとめたのである。實に大膽にして深刻なる斷案と言うべきである。
神を知覺しつつしかも偶像に走るは悟性のみだれである。悟性のみだれの次ぎに起るは情性のみだれである。すなわち彼らが眞の神をしりぞけて偶像を信ずるに至りしため、情性の荒亂は當然の結果として起つたのである。これを記述するのが二四節~二七節である。これ第二段である。
 
まず二四節は言う、このゆえに、神は彼らをその心の欲をほしいままにするにまかせて、たがいにその身を辱しむる汚穢にわたせり。と。「このゆえに」とある語に我らは注意せねばならぬ。前節において偶像崇拝を描き、今これを受けて「このゆえに」と言う。されば二四節は、偶像崇拝の結果として情性の汚穢におちいりしことを意味するのである。そして「神は彼らを…汚穢にわたせり」とあるを見れば、この節は、神怒のあらわれとしてこのことをしるしたものであること明らかである。

由來、偶像崇拝にはかならず道德的腐敗がともなう。パウロがロマ書起草當時滞在しいたるコリントのごときは、偶像崇拝のさかんなるとともに、その道德的敗壊をもつて名高きところであつた。
 
進んで二六節、二七節を見るに、そこに人性逆用の醜陋なる罪惡が擧げられてゐる。。實に偶像崇拝は人間悟性のみだれであるとともに、また情性のみだれをも惹起するところの恐るべきものである。
悟性みだれ、情性みだれて、意志もまたみだれざるを得ない。
 
二八節以下に記さるる各種の不義は、いずれもみな人が人に對して犯す罪であつて、すなわち意志の昏亂を意味するものである。
ロマ書第一章十八節~三二節は、異邦人の罪惡擧示である。そして心靈の鏡にうつりし一神の姿を打ち消して多神を崇拝するに至りしところの偶像崇拝をもつて、すべての罪惡不義の根源と 見るのがその特徴である。
 
パウロは、學者のごとく区々たる論證を頼りとして論理の筆を行らず、豫言者のごとく、神の人のごとく確信の語を力強く吐露するのである。ゆえに犯しがたき権威のその全體を貫けるを否定することはできない。實に偉大なる思想であり、偉大なる論述である。
 
パウロのここに言うところはすなわち聖書全體の敎うるところである
偶像崇拝がすべての不義腐敗の原因なりとは、すべての舊約豫言者の異口同音に唱うるところであつて、新約に入つても、またこのことはその各處に強調せられてゐる。崇むべきところのものを崇めずして、崇むべからざるところのものを崇むるは、心靈の病的状態である。。そして偶像とはすべて神以外の崇めらるるものを指す利欲、権勢、虚名等もまた偶像の一種である。すべて神以外のものに頼るは偶像崇拝である。そして凡百の不義汚濁の源泉である。
 
而して人類の歴史において、つねに社会を支え、潔め、保つ力となりしものは、聖き唯一神の信仰である。げにキリストの福音こそ、人類をなぐさめ、はげまし、改めつつ來つたものではないか。
 
以上のごとく、パウロの罪惡擧示をながむるとき、我らもまたこの罪人の一人なりとの感の生起するをまぬかれない。。しかしながら豫言者イザヤは言う、
エホバ言いたまわく、いざわれらともに論(あげつ)らわん、汝らの罪は緋のごとくなるも、雪のごとく白くなり、紅のごとく赤くとも、羊の毛のごとくにならん(イザヤ書一章十八節)
と。げになぐさめふかき豫言なるかな。緋のごとき罪も消えて雪のごとく白くなり、紅のごとき罪も去りて羊の毛のごとく純白になると言う。
 
罪人にとりてこの上なき大なる喜びの豫示である。そして罪人にとりてこの上なき大なる喜びの豫示である。そして主イエスの福音こそ、實にこの豫言を達成するものである。彼は十字架において萬民の罪を負い、ために我らの罪はいかに重くかつふかくとも、春の日の淡雪のごとく消え去るのである。そして我らは罪をその根柢において除かれて、ただイエスを信ずるのみにて「功なくて義とせらるる」のである罪あるに罪なしとせられ、義ならざるに義とせらる。げに至大の恩惠と言うべきではないか。しかもまだ雪のごとく羊の毛のごとく白くなつたのではない。ここになお不滿がある、ゆえに希望がある(滿ちてしまえば希望はない)。。しかもまだ雪のごとく羊の毛のごとく白くなつたのではない。ここになお不滿がある、ゆえに希望がある(滿ちてしまえば希望はない)。
 
キリスト臨(きた)つて、我らの復活し榮化するとき--そのとき我らは全く純白の衣をまとい、手には勝利の印たる棕櫚の葉を持ちて、寶位(くらい)と羔羊(こひつじ)の前に立つに至るのである(ヨハネ黙示録七章九節)。そのときは豫言の全く成就するとき、福音がその目的を達せしときである。そのとき救いは完成し、神の義と人の義と相一致するのである。これ罪が事實的に痕跡もなく失せて、義のみがすべてにみなぎる時である。然り、ただ義のみがすべてにみなぎる時である。
 
パウロはこれを知るがゆえに、またこれを説く豫備として、まず罪惡の擧示に、その強きペンをふるつたのである。彼が罪を責むるや、實に駿烈をきわむる觀がある。パウロのこの心を知るは、ロマ書の第一章後、第二章全部、第三章前半を讀むにおいてはなはだ大切である。
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