義と愛、ウオッチマン・ニー

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義と愛 ウオッチマン・ニー「神の福音Ⅰ」 
 
神は義であるので罪を裁かないわけにはいきませんでした。
神は愛であるので,人に変わって人の罪を担わなければなりませんでした。
 
神は義であるが故に裁かなければなりませんでした。
また神は愛であるが故に人の裁きと刑罰を担わなければなりませんでした。
 
裁きが無ければ義がありません。裁きがあれば愛がありません
 
神は主イエスにあって、彼の愛を現し、同時に彼の義を現されました。
 
子供が罪を犯した.親としてその罪を罰せずにはおけない.
親は義 正しいから。
 
でも子供を愛しているから,酷く痛めつけたくはない。(ニー「神の福音 Ⅰ)
 
でも、罪は処罰しないわけにはいかない、親の義を保つために。と言うばかりでなく,子が幸いに生きるために。だから俺も子を殴ったことがある。神様の気持ちがよく分かります。  ライオンでさえ教えるために子供を千尋の谷に落とすではないか。
 
内村は語る
「神の力である、また彼の義である。義であるがゆえに力である。神にありては、義ならざるものは力でない。福音は神の力であると言いて、勿論彼の腕力ではない。またこの世のいわゆる権力ではない。
神の義である。ゆえにその力の顯彰(あらわれ)である。人にありては、力が義と離れて存在する場合がすくなくない。然れども神にありては力すなわち義である。義すなわち力である。キリストの福音が人を救うための唯一の力である理由は、それがもつとも明らかに神の義をあらわすからである。義をもつてはたらく力であるがゆえに、パウロは福音を恥としなかつたのである.(ロマ書の研究)」