ロマ書の研究 第7講

 
第七講 問題の提出(一)
-第一章十六節、十七節の研究 -
 
ロマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。(新改訳)
 
第一節 ~ 七節は自己紹介、八節 ~十五節はあいさつであつた。このあいさつは前講のごとくすこぶる意味ふかきものであるが、それにしても一のあいさつとして述べし語たるにすぎない。
然るに、十六節、十七節に入つて、パウロは重大なる語を掲出して我らをおどろかすのである。
多くの學者は、この兩節をもつてロマ書の主題の告知であるとなしてゐるまことにロマ書の主題がここに提出されたのである。言う、「われは福音を恥とせず、この福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人、すべて信ずる者を救わんとの神の大能たればなり。神の義はこれにあらわれて、信仰より信仰に至れり。録(しる)して、義人は信仰によりて生くべしとあるがごとし」と。
 
この書をしたためしころは、パウロが信仰に入りてのちすでに二十餘年を經過していた。そして彼はこの期間の大部分を傳道に用いた。從つてこのときまでにおいて、反對者と論争をなせし囘數は無數に達したに相違ない
ロマ書のごときは彼の五十歳臺の作として、老雄の筆は簡頚(かんけい)にして力と生命とに富む。
今これを原文の順序を追うてしるせば左のごとくなる。
そは、われ恥とせず、福音を、何となれば、こは(この福音は)神の力たればなり、救いに至るべき、信ずるすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも。
 
福音を恥じざるは、クリスチャンにおいてもとより當然のことである、今さらこれをあらためて宣言する必要がどこにあろうか。これ無用の言たるのみならず、また實に弱々しき語である 
 
然らば福音を恥とせぎる理由如何。「何となれば、こは神の力たればなり」とまず言う。福音は「力」である。そして人の力ではない、「神の」力である。この世の哲學と比せよ。「力」と言うがすでに特異なるに、さらに「神の」と附加して、二重の特異となるのである。「それ十字架の教えは、亡ぶる者には愚かなるもの、われら救わるる者には神の力たるなり」(コリント前書一章十八節)とパウロはかつて言うた。福音は哲學にまさる大宇宙觀である。しかし福音は哲學のごとき單なる思想の體系ではない。福音は實に神の力である。ここに福音の特色がある。パウロは思想家であつた。しかし思想家たる以上に實驗家であつた。ゆえに思想の完全とか徹底とかいうことよりも、まず求むるところは人生においての力の有無如何に存した
 
福音は力である、神の力である。「力である、そは福音はある事をなし得るからである。神の力である、そはそのすべての約束を果し得るからである」(ホフマン)。「神の力と言う、大にして榮えあるものである」(ベンゲル)。悔い改め、信仰、慰藉、愛、平安、歡喜、勇氣、希望 ── この世の哲學倫理の供し得ざるもの ── これを與うる力が福音にある。
「力」の原語は δυναμιs(ドゥナミス)である。英語 dynamics(力學)dynamo(發電機)等はこの語より出でたものであり、またかの dynamite(爆裂弾)もそうである。ダイナマイトは元來罪惡遂行の器として發明せられたものではない。文明の開發を目的として發明せられしものである。近代の文明がいかに鐵道に負うところ多きかを考うるときは、鐵路を通ずべく巌石を碎くダイナマイトの偉功を稱えざるを得ない。一小片をもつて巨大なる岩石を微塵に碎き得るはこれである。ゆえにダイナマイトは力の絶好なる代表者である。福音は實にダイナマイトのごとき力あるものである。これに比しては、倫理道徳は、鶴嘴(つるはし)をもつて堅岩を碎かんとするがごとき迂遠なる道である。福音のダイナマイトひとたびわれを打つや、倫理道徳をもつては到底除き得ざりし執拗なる我執の巌も飛散し去るのである。
福音は神の力である。ゆえにパウロは福音を恥としないのである。然り、まことに福音は神の力である。
 
しかしその神の力なることは、その力に觸れてみて初めてわかることである。そしてある人はこれに觸れ、ある人はこれに觸れない。從つてはある人にとつては力であり、ある人にとつては力でない。然らばそれはいかなる人々にとつて力であるか。パウロは言う、「信ずるすべての者には」その人の救いを生むべき神の力であると。信ずる者は一人のこらず ── その一人一人にとつて ── 福音は救いに至らする力である。信仰 ── これが救濟にあずかるに要する唯一の條件(もし條件と稱し得べくば)である他に條件は一つもない。ただ信ずるというだけの條件である。そしてその信仰はかならずしも強きを要しないのである。勿論強きを貴ぶけれども、弱き信仰とても、いやしくも虚僞の信仰たらぬかぎりは、その持ち主をして救いに至らしめ得るのである。ただの信仰、神とキリストとに對する信仰、神を父としキリストを主として仰ぎ見ること、それだけで救いに入るのである。(完)
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アガパンサスアガペー愛の花)凡ての人の心に咲けよ、冷たき世に。