ロマ書の研究第6講

 
第六講 ロマ訪問の計畫
第一章八節~十五節の研究 -
8 まず汝らの信仰を世こぞりて言いひろめたるがゆえに、イエス・キリストによりて、汝ら衆人につき、わが神に感謝す
。9 われその子の福音において心をもつてつかうるところの神は、わがたえずなんじらをおもうその證(あかし)なり。
10 われ祈祷ごとに、ついには神の旨意(みこころ)にかないて、平坦なる途を得、速かに汝らに到らんことを求む。
11 われ汝らを見んことをふかく願うは、汝らを堅うせんために、靈の賜物を與えんとおもえばなり。
12 すなわちわれなんじらの中にあらば、たがいの信仰によりて、相ともになぐさめを得べし
(と言うよりも)
13 兄弟よ、われしばしば志を立て、なんじらに到り他の邦人の中にあるごとく汝らの中より果を得んとせしかども、今に至りてなおさまたげらる。これを汝らが知らざるを欲(この)まず。
14 われはギリシア人および異邦人、また智人(かしこきひと)および愚人にも負えるところあり。
15 このゆえに、われ力をつくして福音を汝らロマにある人々にも傳えんことを願う。
 
第一章一節 ~七節の「自己紹介」は、まことに重要なる箇處であつ 
ロマ書第一章一節 ~ 七節を貴みて、八節 ~十五節を平凡として捨て去る人は、山中の流れを捨ててその湖のみを愛する淺き人である
これを讀むものは、その一語一語に、その一句一句に、その一節一節に、その一章二章に、そのすべての箇處に、細心の注意を拂わねばならない。一として、不用または無價値のものはないのである
まず注意すべきは、第一章八節 ~十五節はパウロの人格發露であるということである。一節 ~ 七節は自己紹介ではあつたが、その内容はパウロのキリスト敎觀の綱目のようなものであつた。すなわちパウロの神學、パウロの人生觀の縮圖であつたパウロは、自己の信念とあわせて自己そのままの姿を赤裸々に人の前にあらわして、すこしも悔いない人である。ここに彼の偉大さが存するのである。また美わしさが存するのである。八節~ 十五節はすなわちこの純なる自己發表である。
我らがこの處を讀みて、彼の性情に觸れ、彼の心の動きを見得るとき、一種微妙なる心の絲が彼と我らをつなぐことを實感する。
 
偉大なるクリスチャンの人格を知り得ることは、我らにとり、種々の意味においてすくなからぬ幸福と利益である。世界を動かせし大使徒の人格如何、もつとも大なる愛をキリストにささげたる偉人の性情如何、我をも焼きつくさんとするごとき熾烈敏感なる魂の處有者の僞りなき姿如何、これらを知るは、信仰上の實學として、その値すくなからぬのである
八節前半を原文の順序のまましるせば
まず第一に 感謝す わが神に イエス・キリストを通して 汝らすべてにつきて、
となる。 まず第一に感謝す」である。あいさつの最初が感謝である人に對する感謝ではない、神に對する感謝である
「第一に神に感謝す」という語が自然と出たのである實に美わしき心、慕うべき魂の清さではないかまず感謝するのである。まず神に對して感謝するのである。しかも自己の事業の成功のゆえではない。己れの名譽が揚つたからではない。實に人のことについて、しかも人々の信仰について、福音それ自身のことについての感謝である。純にして貴き感謝、かつつねに神とともに歩める人の心の反映としての感謝である。
次ぎには「イエス・キリストを通して」の一句あるに注意すべきである。これパウロ特愛の句であつて、彼の信仰の性質を示すものでこの神はいかなる神ぞ。彼は言う、
われその子の福音において心をもつてつかうるところの神」と。「心をもつて」は原文「わが靈において」とある(英語 in my spirit)。わが魂においてであるパウロは己が心靈において神につかえるのである。そして「その子(キリストを指す)の福音において」神につかえるのであるパウロが神につかうるに二つの特質がある。第一はその魂において、第二は神の子の福音というあるかぎられた範圍においてつかえるのである。
實にこの二つは、我らの神につかうるにおいて缺くべからざるものである。我らは己が心靈において神につかえねばならぬとともに、またキリストの福音においてつかえねばならぬのであるそしてこの二つの制限を超えざるかぎりにおいて、我らの神につかうることは自由である。然るに世にはこのことを知らざるクリスチャンが多い。「神は靈なれば、拝する者もまた靈と眞をもてこれを拝すべきなり」とのイエスの敎訓を忘れしがごとくに、空虚なる形式を山と積みかさねて、それにおいて神につかうるをつねとする者が多い。複雑なる儀式により、煩瑣なる手つづきを經て、初めて拝神の道を全うすと誤想せる宗派と、それに屬する信徒多きは歎ずべきである。かくのごときは實に異敎的形式と稱すべきものである
 
クリスチャンはただその心靈において、また神の子キリストの福音において、自由自在に神に向つて活ける奉仕をなすべきものであるプロテスタント敎の生起は、實にかくのごとき純なる拝神の要求に根ざすものである。然るに今や末流濁りて、不純なる拝神に心身を疲らする者多きは歎ずべきことである我らつとめて原始の純を追わんと志せるもの、パウロのこの語において、彼が我らの味方なるを知りて、喜びに堪えぬのである。  
 
誰か明日のことを知り得ん、誰か聖意をことごとく知り得ん。事はいかに進み行くか、いかに變わりゆくか、到底人にはわからない。未來のわが行動について斷定的言語を用いざるものが、實は強き信頼に住む信者である。
「われ汝らを見んことをふかく願うは、汝らを堅うせんために、靈の賜物を與えんとおもえばなり」とある。靈の賜物を與えて彼らの信仰の發達をうながし、その堅立を計らんことが、彼のロマ行き切望の動機であつたのである。「深く願う」の原語 επιποθεω(エピポセオー)は、切に願うを意味す。。我には彼らに與うべき靈の賜物がある。彼らを訪うてこれを分與するとき、彼らの信仰の堅固となり、靈的生命の豐強となるは當然である.
 
情緒のこまやかなる十一節と、謙遜に美わしき十二節とをあわせ見て、パウロの貴さは今さらのごとく感ぜられる。これを、みずから高しとして異邦信徒の兄弟たり得ぬ今日の歐米宣敎師たちに比して、いかに大なる相違ぞや。師たるを知つて友たるを知らぬところに眞の傳道の行わるるはずがないパウロの偉大をもつてして、なお喜んでこの態度に出たことは、今日において大いに注意すべきことである。
 
パウロは、文明人にも野蠻人にも、學者にも無學者にも、福音宣傳をなすべき責務ありと言うのであるこれを果さぬうちは債務を負うてゐる、これを果して初めて負債を償却したのである。この大責任を負わせられたれば、自分は當然すべての人に傳道すべき義務あるものであるというのである。まことに氣宇の宏大、責任感の熾烈たぐいなき壯大なる語である。
文明人にも野蠻人にも、智者にも愚者にも、福音宣傳の義務を負うという語のうちには、福音が、文明人にも野蠻人にも、智者にも愚者にも、すべての人に適する敎えなることが暗示されてゐる。まことにそうである。福音は世の萬人に適する。國籍の差別、文化の相違、階級の高下、知識の有無、賢愚の差、老若男女の別は、福音の前には皆無である。福音は萬人の信受に適する。ゆえにこそ神の福音である。すべての人を救わんとの神の力である。イメージ 1
軽井沢「恵みシャーレー」