ロマ書の研究 第8講

 
第八講 問題の提出(二)
-第一章十六節、十七節の研究 -
ロマ書1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。(新改訳)
 
 
 
パウロは「われは福音を恥とせず」と宣した。そしてその理由として、福音は神の力であると言うた。勿論善き貴き力である。すなわち「信ずるすべての者には救いに至るべき」力である。
「救い」の意味如何である。
救いとは、今日すこぶる廣義の語として用いられてゐる。今日の人の考うるところはすこぶる茫漠たるものにして、惡しき行いの改まりしこと、あるいは福音に心を寄するに至りしことぐらいをもつて救いと見なす人が多い。キリスト敎の傳道師と稱する者の中にさえ、この種の淺き見方をする者が多く、洗禮を受けて敎會に加入せしことをもつて救いとなして安心し、その後の心靈の發育如何に關しては何らの考慮をも拂わざる者がある。
 
眞にはなはだしき誤りである
救いとは、ただの悔い改めを意味する語ではない。この世においては罪に死してキリストに生き、罪の結果たる死(神怒、滅亡)より救われ、復活して主の榮えに似たる榮えに浴し、永遠の世界に永遠の生命を受得すること、これすなわち救いである。新約聖書のソーテーリアはこれ以外を意味するものではない。これ忘るべからざることである。
 
このことは新約聖書においてきわめて明瞭である。「誰か救いを受くべきや」との弟子の用いに答えて、イエスは、「われと福音のために、家あるいは兄弟…を捨つる者は…後の世にはかぎりなき生命を受けん」と答えたもうた(マルコ傳一〇章)。もし新約聖書中の各書翰より救いの永遠的意味を立證せんとせば、我らはその引用すべき語の多きに苦しむほどである。左掲のごときは、そのもつとも代表的なるものである。
 
讃むべきかな、神、われらの主イエス・キリストの父、彼その大いなるあわれみをもて、われらをふたたび生み、われらをして、イエス・キリストのよみがえりたまいしことによりて、活ける望みを得させ、またわれらのために天に納めある、朽ちず汚れず衰えざる嗣業を得しめたもうなり。なんじら信仰によりて神の能(ちから)にまもられ、すでに備えあるところの末の時にあらわれんとする救いを得るなり。(ぺテロ前書一章)。
 
救いとは實に右のごときものである。人は往々にして淺く見んとし、「神の己れを愛する者のために備えたまいしものは、目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心いまだ思わざるもの」であることを知らぬ。今や世界に充つるは淺き救いの聲である。そして救いを説く者にして、いまだ一人たりとも救いを實現した者がない。
 
救いの本義を世に向つて示すべき重責を持つキリスト敎會までが、種々の社会的施設に没頭し、これによつて救いを實現せんと企てつつあるは何の陋態(ろうたい)ぞ救いとは實に人をして永遠の榮光に浴せしむることである。かくのごとき救いに人を至らしむる力が福音あればこそ、パウロはロマ大帝國の光輝を前にして「われは福音を恥とせず」と言い得たのである
 
一時的なるこの世の救濟のごときは、よし遺憾なく實現せらるるとも、人の魂をその根柢において救濟することはできない。キリスト敎の救いがかくのごとき淺きものならば、それはわが持てる一切を捨てても獲得すべき値あるものではない
 
彼(キリスト)とその復生(よみがえり)の力を知り、その死のありさまにしたがいて彼の苦しみにあずかり、とにもかくにも死にたる者のよみがえることを得んがため」なればこそ、パウロはキリストのために「すべての物を損せしかど、これを糞土のごとく思」うたのである。福音のために犧牲の心を起さず、熱心をも燃やさざるは、みなこれその供する救いのいかに大なるものなるかを知らぬからのことである。
信ずる者は誰人にても救われるのである。信仰という條件が一つ要(い)るのみであるダイヤモンドよりも空氣は貴く、爵位よりも水は貴いのである。
 
人が努力の結果到達せし悟道にあらず、神がキリストをもつて ── ことにその苦難と十字架とをもつて ── 啓示したまいたる神の道である。歡喜の福音、絶大の恩惠、類例なき貴きものである。福音はかかる神の力である。ゆえにこそ、パウロはこれを恥とせぬと言うのである。
 
。信仰は、その本質上萬人の持ち得べきものである。ゆえに普遍的のものである。ゆえに救いの條件としてもつとも理想的のものである。このことは原理としてもつとも明白である。
 
以上をもつて十六節の研究を終る。次ぎは十七節である。
パウロは十六節において、福音が萬人を救う神の力なることを示し、
十七節においてはその理由を示して言うのである、「そは、これにおいて神の義はあらわれて、信仰より信仰に至ればなり」と。
 
彌陀宗の根柢は慈悲であるが、福音の根柢は「義」である。前者は徹頭徹尾慈悲の上に立ちて、慈悲を通徹せしむる宗敎であるが、後者は飽くまで義の上に立ちて、慈悲を築成する宗敎である。兩者の類似はその外現において存するのみであつて、その根柢においては天と地との相違がある。
 
福音は義を根柢とするただし義は人の義でない、「神の義」である。神の義がこの福音においてあらわれたのである。いかにして神の義が福音においてあらわれしかは後の問題として、我らは神が義をあらわしたという一事を今は注意せねばならぬ。神はまず義を發揚し、樹立し、確保し、その上において人を義とするの道を取りたもうたのである。そして人は、神が義を發揚、樹立、確保し、その上に赦免と救濟とを得んと願うのである。そして神は人のこの要求に應ずる道を拓きたもうたのである。すなわち義のあらわれて同時に愛のあらわれんことを望む要求は、義をあらわして同時に愛をあらわさんとの聖意と合致したのである。神は愛の神であるとともにまた義の神である。彼は愛のみをもつて人に對して、すこしも義を示さぬことはできない。然らば神の義はいかにして發揚せられしかとの疑問が起る。しかしながら、これはロマ書の本館に入りて明示せらるる問題である。今はただロマ書の主題として、その輪廓をさえ知れば足るのである
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