ロマ書の研究 第五講

  
第五講 パウロの自己紹介(四)
─ 第一章五節~ 七節の研究 ─
 
ロマ1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。
 1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、
 1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
 
 
第三節、四節は、イエスを人としてまた神の子として提示するを主眼とした。五節はこれを受けて「われら彼より恩惠と使徒の職を受く」としるし、次ぎにその理由として「これその名のために萬國の人々をして信仰の道に從わせんとなり」としるしたのである。
 
まず主より恩惠を受けし點において、筆者たるパウロも、讀者たるロマ府の信徒も、全く同一である。彼はこの兩者の共通點を擧げて、まずあたたかみを讀者にそそぎたるのち、「使徒の職を受く」と、自己の特異點に觸れたのである。自己の権能をしるす前に、まず讀者と同列に己れを置くは「イエス・キリストの僕、召されし使徒」と第一節にしるしたると同樣である。
「われら彼より恩惠と使徒の職を受く」と言う。「彼より」はキリストである。さらに精確に言えば、キリストを通してである(原語の dia は英語の through に當る)賦與者は神である。仲介者はキリストである。すべての恩惠は、神よりキリストを通して降るのである。これ聖書の敎うるところにして、また實驗上の眞理である。近代の信者は言う、我らは仲介者をもつて神との關係を間接にせらるるを忌む、人は各自直接にその神につらなり得べきものである、人はみな神の子であり、神はすべての人の父である、父子の關係は直接であるべきであると。まことにもつともらしき説である。しかしながら、事實が雄辨にこのことを否定するを如何。そはキリストを除きて神と人との關係を近からしめんとするは、かえつてそれを遠からしむる道であるからである。人はキリストなくして神とつらならんとするも、事實上つらなり得ない。キリストをあいだに置きて初めて人は神と結び得るのである。これが心靈上の實驗的事實である。あたかも山巓(さんてん)をきわむるには登山路を攀(よ)じ登らざるべからざるがごとく、電氣は電線を通して初めて電燈を照し得るがごとくである。キリストをあいだに置きて初めて恩惠は彼を通して我らに下る。これ實に生命獲得の道である。古來、敬虔有力の信者はことごとくこの道に據りたるを史にながめよ。かさねて言う、我らは理論に據らず、事實に據ると。
五節後半は、五節前半の理由である。「これその名のために萬國の人々をして信仰の道に從わせんとなり」と言う。これを改めて「これその名のために、異邦の萬民をして、信仰の服從に入らしめんためなり」とする方、原意に近い。
パウロの心をつねにもつとも強く占領していたのは、世界萬民にあらずしてキリスト彼自身である。從つて彼の福音宣傳は、彼の名のため、彼の聖名の揚(あが)らんためであつた。勿論萬民を思わなかつたのではない、牧者なき迷羊の痛ましき姿は、鋭敏なる彼の心を強く動かしたに相違ない。しかしながら、この痛ましき姿よりも、かの聖なる姿が、よりあざやかに彼の心に映つたのである。まずキリストのため、しかるのち同胞人類のためである。これ主にある健全なる心の態(さま)である。パウロの言はつねに意表に出ずるがごとくにして、實は決して意表に出でないのである。
「異邦の萬民をして(すべての異邦人をして)」とあるは、パウロが異邦傳道の使命を受けし使徒なるゆえである。「信仰の服從に入らしめんためなり」とあるは、原文「信仰の服從にまで」とあるのみなるを、補譯したのである。今や服從という語は人の忌みきらうものである。さあれ吾人の實驗は信仰の服從のみが人を自由獨立ならしむることを敎うるのである。人は信仰をもつて神に服從して初めて自主の民となり得る。この服從をしりぞくる者は、何か、他のむなしき人または力に服從して、その奴隷となるのやむなきに至るのである見よ、服從すべき者に服從するを厭いて、絶對の自由境に至らんと志して、かえつて物欲の奴隷となれる現代人の惨状を實に現代はあらゆる権力の支配を逃れんとして、全然無服從の生活に憧憬し、國家の権能より、道德の権能より、また神の権能より脱せんと焦燥せる時代である。しかしながらかくのごとき努力は、人をして、神よりも、道德よりも、國家よりも、はるかに低き他の何ものかに服從隷屬せしむる處以である人は服從すべきものに服從して初めて自由独立人たり得る。信仰の服從とは、壓制、威迫をふくむことではない、もつとも美わしき服從である、もつとも貴き服從である。
「異邦の萬民」の語が末節にあるのを受けて、六節は「汝らもその人々の中にありて、イエス・キリストの召しを受けし者なり」と言う。ロマの信者は、第一に異邦の萬民の一部である。そして異邦の萬民は、パウロが福音宣傳の使命の領域である。この意味において、彼らが單に異邦人の一部であるということのみにても、彼と彼らとの間に離れがたき關係がある。然るに、第二に彼らは「イエス・キリストの召しを受けし者」である。彼もまた一節にしるせしとおり、召されし者である。ともにキリストに召され、ともに父なる神を神とし、主イエス・キリストを主とする者である。されば彼と彼らとの關係は二重に密接である。二者のあいだには、離れんとして離れがたき關係が存するのである。まことにともにキリストに召されて、人と人との友交は不易である。人と人と相つながらず、キリストによつて各自相つながる。間接のごとくにして、もつとも密接なる關係である。ここにあらゆる差異区別を打破して立つ眞の友交が存するのである。
一節より六節に至る迂囘路を取りて、ロマ書の送り手はその受け手とついに握手した。ゆえに單に「ロマにあるところの聖徒」と言わず、「神に愛まれ、召しをこうむり」を添加したるところにパウロ式の潤味がある。歡喜にあふれしパウロはかく言わざるを得なかつたのである。まず神にいつくしまるるが第一、そして第二が、召しをこうむることである。かくして初めて聖徒たり得るのである神にいつくしまると言い、召しをこうむると言い、ともに美わしき語である。この二句に接して、ロマの信者は、感謝のなつかしき思い出をもつて、その悔い改め當時を囘想したことであろう--今日の我らもまた然るがごとく。
 
神にいつくしまれ、召しをこうむりて聖徒となつたのである信者が信者自身聖徒と稱するときは、俗人はこれを驕慢として憎みかつ嘲る、いわく、信者もまた罪を犯すにあらずやと。然り、信者もまた罪を犯す、すなわち聖徒もまた決して聖くないのである。しかし由來「聖徒」とは聖き徒、すなわち聖浄無疵の徒を意味する語ではない。原語聖書には αγιοι(ハギオイ)とありて、αγιοs(ハギオス)より出でし語である。そしてここに注意すべきは、このハギオスと οσιοs(ホシオス)との別であるホシオスは、事實上聖きを意味し、ハギオスは、聖きことに用いられるを意味す。ホシオスは一點の汚れなきを示し、ハギオスはただ神が聖き目的のために用うるを示す。この二語はすこぶる似て、しかも大いに異なるものである。そして聖徒はハギオスである。完全に聖き者ではない。聖きことのために用いらるる者である。神の選別と聖召とを受けし者、世より選び出されて聖別せられし者である。
 
神殿において用いらるる素焼の土器は、器としてははなはだ無價値のものであるしかしそれが神事に用いらるるがゆえに貴いのであるこの意味においてそれは聖器である。「われらこの寶を土の器に藏(もて)り」とパウロは言うた。我らは眞に土の器である。價値なき、もろき、壊(やぶ)れやすき者である。しかし神に聖別せられて聖事に用いらるる意味において聖徒であるゆえに我らの積罪垢汚(こうお)は我らの聖徒たるにおいて何らのさまたげをなさぬのである。否な、罪の増すところ恩惠はいや増すのである。我らはかく言うて、自己の罪を辨護せんとするのではない。罪を犯さざらんこと、聖きに至らんことは、クリスチャンの念々刻々の希願であるべきである罪を犯して恥じざるものはクリスチャンではないさあれ聖徒なる文字の意義は明確に了知しておかねばならぬ。この一事を知らざるため、自己の罪多きに失望して、效なき煩悶をかさね、かつて受けたる聖召を空無と感じ、失望の極、信仰を喪失するに至る人がすくなくない摯實(しじつ)なる魂の處有者に、かえつてこの危険がある。これ聖徒の意味を誤解せるより起ることである聖徒すなわちクリスチャンは決していま聖浄無疵なるものではない。ただ聖召を受け、聖別せられて、聖事に用いらるる者たるにすぎない然らばクリスチャンはいつまでも聖くなり得ぬ者であろうか。否な、クリスチャンは永久に聖くなり得ぬ者ではない。その切に願うところは全き聖潔であつて、そのついに到達するところは全き聖潔である。しかしこれ自己の力によつて到達するにあらず、ついに神によつて聖化され、榮化さるるのである。その時の歡喜抃舞(べんぶ)果していかなるべき。想うだに心おどるはそのときのことであるそれまではクリスチャンは「聖からざる聖徒」である。けれども疑いもなく「聖徒」である
 
以上、ともに神よりキリストを通して召されし者、ともに恩惠を受けし者である。すなわちパウロも彼らも、キリストにありて一なるものである。かくキリストにありて一なるものの一人より、他のものに書を贈るのであるとパウロは言う。見事にアーチの造られしかな。かくてこのアーチを越えて、甲は乙に祝福を送るのである。すなわち七節後半に言う、「汝ら願わくはわれらの父なる神および主イエス・キリストより、恩惠と平康を受けよ」と。
 
この恩惠と平康が「われらの父なる神および主イエス・キリストより」來るのである。神を「われらの父なる神」と呼び、イエスを「主イエス・キリスト」と呼ぶ。いずれにせよ、恩惠と平康が神とキリストとより來るとは實驗上の事實である。そして神のみを擧げなかつたところにパウロの特色が存するのである神のみを擧ぐれば足るというは、近代人の理論たるにすぎない。信仰の偉人使徒パウロは、その實驗上より、神とキリストとの兩者を擧げざるを得なかつた。そして近代の信者といえども、理論より靈的實驗を重んずる者はまた然るのである。
七節後半は、原文のとおりに譯せば、願わくはわれらの父なる神と、主イエス・キリストとより、汝らに恩惠と平康あらんことを」となる。すなわちこれ祈りの語である。兄弟に向つての祈りとして、もつとも美わしきものであるというべきである。しかしながら、あるいは言う人があるであろう、書翰において「平安を祈る」という意味の語をしるすは、不信者もまたよくし得るところでないかと。答えて言う、不信者の祈りの語とパウロのこの語とのあいだには、第一に、意味上に大なる相違があり、第二に、實際に祈らぬと祈るとの相違があるとらの信仰の堅立を祈り、彼らの上に、父なる神と主イエス・キリストとより、恩惠と平康の來らんことを祈らざるを得なかつたのである。
 
以上をもつて自己紹介の部を終る。その中にいくつもの貴重なる眞理ふくまる。これをよく解せし人は、福音そのものを了解せし人である。眞にこれキリスト敎の縮瀉圖である。その一語一語に、この世の他の處において見出し得ぬ特異なる眞理が存する。
 
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