ロマ書の研究 第4講

 
第四講 パウロの自己紹介(三)
-第一章三節、四節の研究 -
ロマ 1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
 1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
 
この講ではイエスが神の御子であると検証して行く。
第一節の終りに「福音」の一語出でしため、二節はこれを受けて「この福音は、從前より豫言者たちによりて聖書に誓いたまえるものにて」と述べ、三節前半は「その子、われらの主イエス・キリストを指して示せり」と言う。これ福音の中心問題が「神の獨り子」なることを示したのである。そして三節後半と四節とは、この獨り子についてしるして言う、「彼は肉體によればダビデの裔(すえ)より生れ、聖善の靈性によれば、甦りしことによりて、明らかに神の子たることあらわれたり」と。これ使徒パウロのキリスト觀の簡約にして、この自己紹介の中枢、弓形橋の要石たるものである。
この三、四節は、原文においてわずかに二十八字、英譯において四十一字(ともに冠詞をも加算して)より成りて、一節より七節にわたる一成文(センテンス)の一部たるにすぎないが、その内容の壯大、深遠、高貴なるは、誰人もみとめざるを得ざるところである。日本譯聖書の譯は正確でない。今、原文を左のごとくに譯して見よう。
[この福音は、從前よりその豫言者たちによりて、聖書に誓いたまえるものにて]神の子に關するものなり。彼は肉によればダビデの裔より生れ、聖なる靈によれば、死よりの復活をもつて、明らかに神の子たることあらわれたる者、すなわちわれらの主イエス・キリストなり。
 
これは決して完全なる改譯ではない。ただなるべく邦譯聖書の譯文を破壊しない程度で試みた假りの譯である。ここにイエスがただの偉人または聖人としてしるされていないことは一讀して明らかである。難ずる者は言うであろう、イエスはイエスでよい、單なる人、偉人、聖人、ナザレの豫言者でよい、かかるむずかしきキリスト論は不用である、まして書翰劈頭の自己紹介中にかかる面倒なる神學的命題をしるすがごときは、パウロその人の意を知るに苦しむと。
信仰問題としてはいざ知らず、聖書學上の問題としては、人をして取捨に迷わしむるものである。
然り、難問題はロマ書第一章三、四節にはいくつもひそんでゐる。しかし聖書は由來信仰の立場において讀むを本義とする。辭義の攻究もとより肝要であるが、信仰の眼をもつてせずしては聖書はなぞの世界である。聖書は信仰の書である。そして信仰の書は信仰の鏡に照されて初めてその眞の姿をあらわすのである。靈のことは靈の眼にしか映らない。我らは、信仰なき者の奇怪とするところ聖書學者の至難とするところをも、靈の眼をもつて見透さんとの勇猛心をふるうを要するのである。
 
すなわちイエスは、「人としては」ダビデの裔より生れたのであるこれ彼の人的半面である。そして「聖き靈」によれば神の獨り子なのである。彼には神と人との二つの性質があつた。彼は一面、人であつて、一面、神であつた。彼においては、人性と神性との兩者が融合して一となつていた。これパウロの主張であつた。そしてロマ書第一章三、四節の主意はここにある。これを形而上學的に、または神學的に講究することはしばらく別として、單純なるクリスチャンの信仰の立場よりながむるときは、これはぜひとも不可缺のことである。
 
エスの神性をみとむるは、信仰をして信仰たらしむる道である。そのゆえ如何。けだし救拯なきところ信仰は生起しない。而して人は單なる同類の一人によつて救いにあずかり得べき者ではない何となれば、人はいかに偉大なりとも、そのふるう能力に制限があるからである。救いはただ萬物の主なる神と、その代理者たる獨り子キリストとのみより來る。その他の誰人よりも眞の意味の救いは來らないただ彼に神の性があればこそ、人を救い得たのであるまた救い得るのである。人の持たぬ性が彼にあればこそ、人の持たぬ力が彼にありて、人類の救者たり得るのである。これは、彼の救いに浴した者においてはきわめて明々白々なる實驗上の眞理である。このことが根柢になくば、キリスト敎は有るも效なき宗敎である淺く民の女の傷を癒やして、平康(やす)からざるに平康し平康しと言う敎えである。キリスト敎がイエスの神性の上に立つておらぬ宗敎ならば、我らは一刻も早くこの宗敎を去るべきであるもしキリスト敎が人を救い得る宗敎であるならば、ぜひともイエスの神性をその根帶として持つものでなくてはならぬ。ゆえに言う、イエスは明らかに神の獨り子である、その神性は日のごとく明らかであると。
かくエスの本質として神性をみとむるときは、彼は天の榮位を去り、身を下して人となつたと見るほかないのである。すなわちパウロが晩年において、
「彼は神の體にておりしかども、みずからその神とひとしくあるところのことを捨てがたきことと思わず、かえつて己れをむなしゆうし、僕の貌(かたち)をとりて人のごとくなれり」(ピリピ書二章六、七節)
 
と言いしごとくである。すなわち神の獨り子なる彼が、人として人間世界にあらわれたのである。然らば何ゆえこのことに出ずる必要ありしかとの疑問が起る。これに答えるものとして、我らは
へブル書第四章十四 ~ 十六節
さればわれらに天を通りて昇りし大いなる祭司の長、すなわち神の子イエスあり。ゆえにわれら信ずるところの敎えをかたくたもつべし。そは、われらが弱きを思いやること能わざる祭司の長はわれらにあらず。彼はすべてのことにわれらのごとく誘われたれど、罪を犯さざりき。
 
このゆえに、われら憐れみを受け機(おり)に合う助けとなる惠みを受けんために、はばからずして恩寵の座に來るべし。神の子がイエスとなり、大なる祭司の長となりて、人のあいだに幾年かを人とともに送り、その間、患難の風に吹かれ、辛苦の雨に打たれ、罪は犯さざりしも、しばしば人と同じく誘われ、人の弱きを思いやり得る立場に己れを置き、ついには萬民の罪をあがなうために十字架にのぼり、よみがえり、空を通りて昇り、今や神の右に坐して、祭司の長として、人の罪のため、刻々執成の勞を取りつつある。かかるがゆえに我らは信ずるところをかたく保つべきである。エスに人性と神性の兩面が共在したればこそ、彼は人類の救い主たるのである。ロマ書第一章の三、四節について疑問とすべき點はいくつもあるが、その主意はエスの人性神性の具有を示すにあるは明らかである。そしてこのことは、彼が救い主たるべく必須のことであつて、從つて我らの救いのために必須のことである頭腦の上にのみ福音を悟了せんとする人には、これはつまずきの石であるしかしその全心魂を擧げて救いの實得と生命の分與にあずからんと志せる惱める魂にとりては、まことにまことに天來の福音である。
エスダビデの子である、ゆえにユダヤ人の王として生れしものである、約束のメシヤ、イスラエルの救出者である。イエスは神の子である、ゆえに人類の首(かしら)として降りしものである、王の王、主の主、人類を永遠に救い、これをして永遠の生命に浴せしむる者である。
 
然らば死よりの復活をもつて明らかに神の子たることあらわれたとの四節の斷定の意味は如何、これを二方面よりながむるを得と思う。
第一、彼は初めから神の子であつた。生誕より前に、勿論復活より前に ── 神の子であつた。。
第二に、我らはこれを他の方面より見ることができる。然るときは「死よりの復活により、権能をもつて神の子として立てられたる者」と改譯することも、文字上優に許さるるのである。かく見るときは、復活後のキリストはある特殊の位に即()いたのであつて、降世以前の彼とは別のある状態に入つたと見ることができるのである。
 
降世以前の彼と、昇天以後の彼のあいだに著るしき相違がある。實に神の獨り子の降世は、永久に彼が人となることであつた。彼は神たることを捨てて人となりおわつたのであるし三位の神はその一位をとこしえに捨て去つたのである。「その神とひとしくあるところのことを捨てがたきことと思わず、かえつて己れをむなしゆうし…人のごとくなり」とは正にこのことを言うたのである。ゆえに三十餘年の彼の地上生活においては、彼の本質は神であつて、現實は人であつたのであるしそして「すでに人のごとき形状(ありさま)にてあらわれ、己れを卑くし、死に至るまで從い、十字架の死をさえ受くるに至」つた。「このゆえに、神ははなはだしく彼を崇めて、もろもろの名にまさる名をこれに與えたも」うたのである。これすなわち榮化であ
 
彼は舊の處に歸つて、ことごとく人性を脱してふたたび舊の「道(ことば)」となつたのではない。
人として榮化して、神の右に坐するに至つたのであるすなわち彼は今もなおその人たる性を脱せずして、榮化せられし人として ── しかしその最高位に ── あるのである
 
この意味においては、我らもまた彼に似たる者となり得るのである。。彼すでに復生(よみがえり)の初穂となり、第一に榮化して、長兄として神の右に坐して、我らのために執成せるゆえ、「神すでに主をよみがえらせたもう、またその能力をもつてわれらをもよみがえらすべ」きことを信じ、榮化して彼に似たる者となるべきことを信じ、ここに安心と希望をつなぐのである。「死よりの復活により、権能をもて神の子として立てられたる者」と言う。意味はきわめて深遠である。しかし汲みて盡きせぬ生命の源がここにあることを誰か否定し得よう。
 
「聖善の靈性によれば」と言うは、左の三類に分つことができる。
第一、聖靈と見る。
第二、神性と見る。
第三、靈性と見る
すなわち「聖なる靈」という語は、以上のいずれをも意味し得る語である。從つていずれを採るべきかということがただ意味の上の問題となる。これこの句の解釋のむずかしき理由である。大聖書學者を惱ましたるこの種の問題については、我らは輕々に最後の決定を與うることを避くべきである。
 
四節の最後には「すなわちわれらの主イエス・キリストなり」とある。これを原語の順序のままに譯せば
エス キリスト われらの主
である。「イエス」は、ただ人としての名、すなわち彼の人たることを示す。「キリスト」は、メシヤすなわち受膏者を意味す。「われらの主」とは、萬民の主を意味する。萬民の罪を擔いて十字架に死し、よみがえりて神の子の榮位に即き、神の右に坐してとこしえに生き、今我らのために執成し、今我らに恩惠と平康(やすき)を與え、生命と力とを賜わり、時滿つれば再び臨(きた)るべき人類の救い主を言う。以上の三性質を兼ぬるものが「われらの主、イエス・キリスト」である。人であるとともにユダヤ人の王であり、ユダヤ人の王であるとともに人類の主であるのが、すなわち主イエス・キリストである。「イエス」と「キリスト」とは時間と空間との制限を受くる史的人物として彼を示し、「主」は、時間空間を超越せる永遠無碍(むげ)の存在者として彼を示す。「主」が、もつとも廣くかつ重き語であることは言うまでもない。この語をもつて彼と人類との關係が言いあらわされるのである。されば福音を稱してキリスト敎と言うは實は不充分である。キリスト敎はすなわちメシヤ敎と言うとひとしく、單にユダヤ人にかかわる語である。
「主」を、ギリシア語においてキリオスと言う。ゆえにこれをキリオス敎と改稱するとき、初めてその全人類にかかわる救いの音信(おとずれ)なることが示さるるのである。それはともかく「主イエス・キリスト」なる一語は、不用意に發せらるべき語ではない。彼の本性を三方面より言いあらわせし語として、その内容の廣く、高く、かつ深きに注意せねばならぬ。然るに今やこの語を無意味に口にする者多きは歎ずべきである。 (完)