ロマ書の研究 第3講

 
ロマ書1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ
 
ロマ書第一章一節を、原語の順序のままにしるせば
パウロ イエス・キリストの僕 召されたる使徒 神の福音のために選ばれたる
となる。すなわちロマ書第一章一節は下の三思想より成るものである
 (第一)イエス・キリストの僕なるパウロ
 (第二)召されたる使徒なるパウロ
 (第三)神の福音のために選ばれたるパウロ
 
キリストの僕というは廣き語にして、すべてのクリスチャンを指すものである。
キリストの僕(奴隷)たる覺悟なき者は、他にいかに優秀なる特性を有すとも、クリスチャンと稱することはできない。
ロマ府の信者にして眞のクリスチャンである以上は、かならずキリストの僕であるべきはずである。
キリストの僕たる點においては、パウロと彼らとのあいだに何らの差別がないよし兩者は他のすべての點において相違せりとも、すくなくともこの一點において全く同一であるパウロは、まずキリストの僕としるして、何よりも先にこのことが彼の第一特徴であることを示したのであるが同時にまたロマ府の信徒と共通なるこの一點をまずしるして、彼と彼らとのあいだに一脈の温流を通ぜしめたのである。貴き愛の技巧よ!多分ロマ府の信徒は、書翰の劈頭にこの句を讀みて、すくなからぬ安心と温味を感じたことであろう。
 彼は進んで召されたる使徒と述べた。これ彼らと自分との第一の相違を明らかにし、あわせて、神より與えられし自己の権能を示したものである。
 
かく使徒とは初代敎會特有の語であるが、それにまた廣狭の二義がある。狭義においては、キリストの生前に使徒に任命せられたる「十二使徒」を指すのである。
  この意味においては、パウロは勿論使徒ではない。換言すれば、彼は十二使徒の一人ではない。
 
次ぎに廣義においては、使徒なる語は、第一級の傳道者を意味する。
 
「神は第一に使徒、第二に豫言者、第三に敎師、その次ぎに異能を行う者、次ぎに病を醫やす能を受けし者、救濟(ほどこし)する者、治理者(つかさどるもの)、方言(ほうげん)を言う者を敎會に置きたまえり」(コリント前書12章28節)
とあり、また
 
「その賜いしところは、使徒あり、豫言者あり、傳道者あり、牧師あり、敎師あり」(エペソ書4章11節)
 
とある。すなわち廣義の使徒は敎会の第一人者を意味するバルナバ、主の兄弟ヤコブのごときは、この意味の使徒であつた。パウロ十二使徒の一人でなかつた以上、まずこの意味の使徒であつたのである。
 かく使徒なる語は、初代敎会において、すべての傳道者を指した語ではなく、ある種の傳道者を指した語である。この意味においては、使徒を大使(ambassador)と見るをもつとも便とする。
パウロ使徒であるというのは、キリストの大使であるという意味であるそして彼は特に異邦人への使徒である。然り、異邦使徒(gentile apostle)であるすなわちキリストより異邦につかわされし者であつて、異邦人のあいだにおけるキリストの代理者である
 
 パウロはまずキリストの僕(奴隷)と稱し、次ぎにキリストの大使と稱す使徒である、しかしただの使徒ではない「召されたる」使徒である。
 
みずから進んでその重責に當つたのではない神に召されて辭退せしも、ゆるされず、ついに餘儀なくして就任したのである自薦によらず、聖召によるそこに弱味があり、また強味がある。然り、人による弱味があるゆえに、神による強味があるのである。 パウロ自身が實にそうであつた。彼は十二使徒らと同樣、彼の職に召されたのである.「召されたる」の一語は、我らをしてイスラエルの古き偉人を想起せしめる。
 
アブラハムは「汝の國を出で、汝の親族に別れ、汝の父の家をはなれて、わが汝に示さんその地に到れ」とのエホバの召しを受けて、「エホバの自己に言いたまいし言に從いて出で」行いたのである(創世記十二章)。
 
モーセは、神の山ホレブに民族救出の聖召を受けて、辭退しまた逡巡せしも、ついにこれを受くるの餘儀なきに至つたのである(出エジプト記三章)。
 
イザヤは、エホバに罪を潔められて召されしため、その召しに應じて立つに至り(イザヤ書六章)、
 
エレミヤは「われ汝を胎に造らざりしさきに汝を知り、汝が胎を出でざりしさきに汝を聖め、汝を立てて萬國の豫言者となせり」との招きに應じて、一度は辭退せしも、ついに豫言者の聖職についたのである(エレミヤ記一章)。
 
いずれもみずから進んでその重責に當つたのではない、神に召されて辭退せしも、ゆるされず、ついに餘儀なくして就任したのである。自薦によらず、聖召による。そこに弱味があり、また強味がある。然り、人による弱味があるゆえに、神による強味があるのである。
 
、「召されたる」の一語を添加せざるを得なかつた。語は一字(原語クレートス)である。しかし意味は無量である。そしてこの語をしるせしときの彼の感慨もまた無量であつたことと我らは思う。
 
敎会に頼(よ)らず、敎派をたのまず、ひとり立ちて福音を世に布(し)きたるパウロは、偉大なる独立傳道者であつた。彼の使徒たるは、「召されたる」という一事實のほか、何らの據處(よりどころ)なきものであつた。しかしながら、傳道者として「無くてかなうまじきもの」はこの一事であつて、他のすべては、有るも無きもよきものである。そして他のすべてを具備するともこの一事なくば、傳道界の無資格者である。すべて眞の傳道者は、みずから進んで傳道者となれる者にあらず、神に召されて、否應なしにこの務めに當るに至りし者である。かかる者においては、形の上の資格は、有るも可、無きも可である。
 
汝、正規の神學校を卒え、牧師試驗に及第せしゆえに眞の傳道者なりと言うか。去れよ、かかる傳道者は神の國に用なき者である
汝その知識と德望と技能とのゆえに好適の傳道者なりと言うか去れよ、かかる傳道者は僭越虚罔の徒である。ただ召されて傳道者となりし者のみ、よしその外形は「世の汚穢(あくた)、また萬の物の汚垢(あか)のごとく」なるとも、眞の傳道者である。
 
而して實は單に傳道者にかぎらず、すべて眞のクリスチャンは「召されたる」クリスチャンである。みずから成らんと欲して成りしにあらず、父によりて信仰を與えられ、父の聖召によりて信仰生活に入つたのである勿論洗禮の有無、處屬敎会の如何のごときは問題とならぬのである。しかしながら「召されたる傳道者」、示されたるクリスチャン」と自稱する者かならずしもことごとく召されたる傳道者、召されたるクリスチャンではない 
 福音」は原語にて ευανγελιον(ユーアンゲリオン)と言う。實に美わしき語である。美わしき思想を傳うる語は美わしきひびきを有す。前に「奴隷」という惨(いた)ましき(文字の表面は)語を發し、次ぎに「福音」のために選ばると、美わしき語をしるす。ここにまたパウロ独特の對照があるのである。パウロは實にこの善き音信のために選ばれたのである。ユーアンゲリオンは「善き音信」を意味す。英語において、gospel(ゴスペル)が good spellすなわち「善き語」を意味すると似てゐる。ではない、神の刑罰を世に傳うる使者としてではない、實に神の善き音信を世の民に傳うる使者として選ばれたのである。何者の榮譽か、これに如かん。何らの幸福か、これに比せん。
 
次ぎは第二節の研究である。「この福音は、從前よりその豫言者たちによりて、聖書に誓いたまえるものにて」と言う
さればイエス
「汝らの先祖アブラハムは、わが日を見んことを喜び」(ヨハネ傳八章五六節)
と言い、また
「もしモーセを信ぜばわれを信ずべし、そはモーセわがことをしるしたればなり」(同五章四六節)と言うた
  
もつとも進歩的の人なりしパウロはまたもつとも保守的の人であつた。彼は古き聖書に頼り、古き舊き豫言をもつて、もつとも新しき福音を擁護せしめた。彼を稱して矛盾の人と言うなかれ、むしろ偉大の人と言え。進歩と保守とを一身に兼ねて、人は初めて偉大である。(第3講完)