ロマ書の研究 第2講-2

(第2講からの続き)
かくイエスのことを説明せしパウロは、次ぎに彼と自分らとの關係を述べて五節を作つた。すなわち言う。われら彼より恩惠と使徒の職を受く、これその名のために萬國の人々をして信仰の道に從わせんとなり」と。
 
萬國の人々とあるは、すべての異邦人の意味である。そしてこの「すべての異邦人」なる語より、ロマ府の信者に言いおよんで(彼らもまた異邦人の一部なれば)六節を作り、「汝らもその人々(異邦人)の中にありて、イエス・キリストの召しをこうむりしものなり」としるし、もつてこの書翰の受信者の性質を明らかにしてゐる。このごとくして、自己より出發していよいよロマの兄弟にまで筆をはこび來りて、彼は七節の語を發し得るに至つたのである。七節前半には「われすべてロマにあるところの、神にいつくしまれ、召しをこうむり、聖徒となれる者にまで、書を贈る」とある。 
この偉大なる「自己紹介」について、英の聖書學者ジェー・エー・ビートの述べし下の語は、まことに美わしき説明であると思う。(ビート、ロマ書註解三八ページ)
       パウロの初めの語(一節より七節までを指す)の壯美と整斎に注意せよ。それはタルソのユダヤ人(パウロを指す)とロマの信者とのあいだの深き谷に架けた水晶の弓形橋(アーチ)である。パウロはまず己れの名をしるし、次ぎに己れの職の権威を述べ、次ぎにその宣傳する福音に言及する。福音の一語より進んで、彼は福音の大なる主問題たる「ダビデの子にして神の子たるキリスト」にまでのぼる。これこの弓形橋の嶺である。ここより彼はふたたび使徒職について一言し、その使徒職のはたらきの範圍たる異邦萬民に言及する。そしてついにこの異邦萬民の中に在ロマ府の信者を見出すのである。彼は自己の権能主張をもつて始め、彼らの権能をみとめて終つた。深き谷に橋が架かつた。民族的差別の河を超えて、彼は一の弓形橋を投げた。それを形造る一つ一つの部分は生ける眞理であつて、その要石(中央の石)は、人と成りしところの神の子である(四節を指す)。この橋を渡して、彼は彼の父にして彼らの父なる神、および彼の主にして彼らの主なるキリストよりの祝福を送つた。
 
さてこの弓形橋の第一部は「イエス・キリストの僕パウロ」である 
 「僕」と譯されし原語は δουλοs(ドゥーロス)であつて、奴隷を意味する。パウロは自己をもつてイエス・キリストの奴隷となしたのである。これ大いに注意すべきことである。
 
世にはイエスの弟子と自稱する人、イエスの兄弟と自稱する人、イエスの友と自稱する人がある。勿論我らは彼の弟子である、兄弟である、また友である。そこに何らの誤謬はない。しかし問題は、その上にさらにエスの奴隷という觀念を附加するかせぬかに存する。この語をもつて、我らは彼に對する絶對的服從を意味するのである。もしこの第四の語を除きて、單に彼の弟子ならんか、單に兄弟ならんか、單に友ならんか、勿論我らは彼に全然的服從をしないのである。弟子は全然師に服從する者ではない。師にそむくことも、師を捨てることもできる。師の思想を舊しとして批評することもできる。世にイエスの一部を取りて他を捨つる者多きは、これ彼の弟子たるものにして、彼に身をまかせたる僕ではない。またイエスの友というに止まらば、あるときは彼の言に從い、あるときは彼の言をしりぞけ、また我より彼に忠告を呈することもでき、勿論彼を批評にのぼすこともできる。世に、彼の友たるにとどまる者はなはだ多い。またイエスの兄弟をもつてのみおる者も、右と大同小異である。到底全部をささげて彼に從える者ではあり得ない。
 我らはイエスの弟子でもあろう、兄弟でもあろう、友でもあろう、しかし何よりも第一に彼の奴隷でなくてはならぬこれ必須なる第一要件である。奴隷と言えば、主人に全然服從すべきものである。水に入れと言わるれば水に入り、火に入れと言わるれば火に入り、死せよと言わるれば死す。主の命これ服い、主のために死するをもつて己れの名譽、特権、幸福とする。實にクリスチャンはキリストに對してこの種の關係においてあらねばならぬ。まことに日々十字架を負うて彼に從う決心ある者にして初めてクリスチャンたり得る。彼の一部に服して他に服せず、彼の命に半ば服して半ば服せず、彼の命をあるときは守りてあるときは守らず、これ己れを主として彼を己れの從たらしめんとするものであつて、己れをむなしゆうして彼につかえんとする者ではない。この種の人は、あるいはキリストの弟子であり、友であり、兄弟であろう。けれどもキリストの僕ではない。そしてキリストの僕たらぬ者は、すくなくともパウロの眼においてはクリスチャンではないのである。我らは自己の有形無形の處有全部 - その生命までをも - 彼にささぐる心ありて初めてクリスチャンたるのである。
然るにこのパウロが、キリストに對してのみは、絶對的服從の道を選んだである。實に彼にとつては、人の奴隷たるは、死をもつても償いがたき最大の恥辱であつた。「そは、わが誇るところを人にむなしくせられんよりは、むしろ死ぬるはわれに善きことなればなり」(コリント前書九章十五節とは彼の素懐であつた。
 
1コリント9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。
 
しかしながら、キリストの奴隷たるは、何物をもつても換えがたき最大の榮譽であつた。彼はかの恥辱の道を取らずして、この榮譽の道を取つた。我らまた彼にならうべきである。人の奴隷には決してなるまじ、いかなることあるとも --よし死をもつて脅かさるるとも--決してなるまじ、しかし神の獨り子、人類の救い主、我らの主たるイエス・キリストには、全然奴隷の位置に立たんと。これ我らの悔い改め當時の決心であらねばならぬ。また一生涯の決心であらねばならぬ
 然らば我らキリストの奴隷となるとき、我らの尊重する自由を喪失するおそれなきか。否な、我らキリストの奴隷となりて初めて自由をわがものとなし得るのである。人の奴隷となるは自由を喪失する處以であるキリストの奴隷となるは、自由を確保し、培養し、これを眞に我の永久的處有物たらしむる道である。今人が眞の自由を有せざるは、自由を得るの道を知らざるためである。我らはキリストの奴隷となりてのみ、眞に自由をわがものとなし得るキリストには絶對の服從、人よりは絶對の自由、これが眞のクリスチャンのまじりなき姿である。
 「イエス・キリストの僕パウロ」と、而して人の眞に生くる道を傳えてゐる一個の石塊に、知りつくしがたき秘密あり、パウロの一語に無限の意味あり我らまずロマ書劈頭の一語にふかき注意をそそぐべきである。
内村鑑三、ロマ書の研究、第2講 完