ロマ書の研究 第2講 パウロの自己紹介

 
第二講 パウロの自己紹介(一)
─ 第一章一節 ~ 七節の研究 ─
 
 
ロマ書1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ
 1:2 ――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
 1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
 1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
 1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。
 1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、
 1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
 
   
ロマ書は七千字より成る。すなわちこれを七千個の大理石をもつて造れる大建築物に比すべきである。ロマ書を研究するは、あたかもこの一大建築物を、表門より入りて裏門に出ずるまで、巡覧するがごときものである。全體として壯麗であるとともに、その個々の室がまた壯麗にして、吾人の眼をおどろかすのである。
 
 この大建築物に入る我らは、その門に「義人は信仰によりて生く」なる標語のかかげられあるを見るであろう。
 
そして我らはまず表門の壯麗整美なるを歎稱するのである。
これ第一章一節 ~ 七節の「自己紹介」であつて、まことに稀れに見る大文字である。
 
表門の次ぎには廊下がある。これ第一章八節 ~ 十七節の「あいさつ」に相當する。これもまた表門に劣らざる立派なものである。この二つを通過して、いよいよ本館に入る。
 
ロマ1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
 1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、
 1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
 1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
 1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
 1:13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。
 1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています
 1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
 1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 
本館は三棟に分たる。第一の本館は、三棟中最大のものであつて、本館中の本館というべきものである。その壯麗雄大は言語に絶せりと稱すべく、人間の建築物中、他に類例なきを思わしむるほどのものである。これ第二章十八節より第八章の終りまでに至る「個人の救い」の項である。
 
次ぎは本館第二にして、その美、また第一に劣らぬ宏壯なる建物である。すなわち第九章 ~ 第十一章の「人類の救い」がこれに當るのである。
 
本館第三は、第十二章より第十五章十三節までの「信者の道德」に當る。我らは救いの問題ののちに實践道德に移るのである。まず救いあつての道德である、道德あつての救いではない。この第三の本館も、この世の建物とは趣きを異にせる美わしきものである。以上のごとく、三棟の本館を巡覧し終りて、
 
ついに我らは裏門に達する。これ第十五章十四節以下第十六章末尾までの「私用、告別、祝福」に當る。この裏門たるや、また見すごすべからざる貴きものである。かくして裏門を出でて、我らはロマ書という一大殿黨を見終えるのである。
 
 而してこの大建築物は實に「信仰より信仰に至る」ものである。これを組織せる七千個の大理石は、いずれも信仰の大理石である。天井を仰ぐも、床に伏すも、壁を見るも、一として信仰に立たぬはない。土臺そのものもまた信仰より成る。空氣そのものもまた信仰の香を放つ。その一見して信仰と見えざる部分も、精査すれば、明らかに信仰の上に立つ。實に信仰--然り、主イエス・キリストに對する信仰は、この大伽藍にみなぎりあふるる特徴である。
 
「表門」に當る自己紹介の部、すなわち第一章一節 ~ 七節の研究をしたい。
 
この間はわずかに七節より成り、原語聖書において九十三語(冠詞をも一語に數えて)、英譯聖書にて百二十七語(冠詞をも加算して)、邦譯聖書にては二百六十字を數えるのみである(現行改譯聖書にて二百八十九字 - 畔上註)。しかしながらこの表門はこの世におけるもつとも美わしき、もつとも貴き、もつとも良き材料より造られしものである。
 
何ゆえにパウロは劈頭第一に自己紹介の擧に出ずる必要があつたのであるか。そは彼とロマ府の信者とが未見のあいだであつた(少數の者を除きては)からである。
時は紀元五十七、八年のころであつた。彼はその第三回傳道旅行の途次、ギリシアのコリントに滞在しつつあつた。使徒行傳第二〇章二節、三節に「その地を經て、多くの言をもつて人々をすすめ、ギリシアに至り、ここに三ヵ月とどまりて」とあるがそれである。その時に、またその時の前から、彼の心に二つの相納れぬものがひそんでいた。
 
一は、以前より胸に秘めいたロマ行きの希望であつて、
一はエルサレム行きの責務であつた。
二つを同時に行うことはできない。いずれか一を先にしなければならぬ。勿論彼は責務を希望のあとにまわす人ではなかつた。彼はまず責務を果さんと決意した。然るのち、ぜひともロマ府を訪い、あわよくばロマ府を飛び石として、歐洲の西端イスパニアまで福音を布かんと志した。かの責任のため、この希望は後まわしとなつた。しかし彼はロマ府を - ことにそこにある或る數の兄弟姉妹を - 忘れ得る人ではなかつた。よしその大部分は未見の人なりとはいえ、靈においては十年の知己にもまさる者である。彼はアデリア海をへだててはるかにロマ大帝國の首府をおもうた。
彼の心は愛をもつて燃え立つた彼はついに一の公的書翰をしたためて彼らに送らんと定めた。しかし未見の兄弟姉妹への書翰である。ゆえに彼はまず第一に、自己紹介のために數節を用いたのである。
 
「この福音は、從前よりその(神の)豫言者たちによりて聖書に誓いたまえるもの」なることを示してゐる。そして三節前半において、この兩者が「その(神の)子、われらの主イエス・キリスト」にかかわるものなることを述べる。然らばこのキリストとは何であるかとの疑問が起る。すなわち三節後年と四節はこれに對する答にして「彼は、肉體によればダビデの裔より生れ、聖善の靈性によれば、よみがえりしことによりて、明らかに神の子たることあらわれたり」と、彼は兩方面より説明してゐる。
(続く)