十字架を負うとは

 
十字架を負うとは、
 
「もし我に従わんと思う者は己を棄て、その十字架をおいて我に従え」とは彼が彼の弟子たらんと欲する者の覚悟を述べられたる言葉である。
 
十字架は,恥辱、圧服、虐待の印である。そうしてこれを負うの覚悟無くしてキリスト信者となることは出来無い。
 
十字架は我等が世に勝つための唯一の武器である。そうして十字架によりて世に勝とは十字架の旗印のために剣を抜くことではない。
 
十字架を負うとは負けることである.全然敵に譲ることである.敵の善を思うことである.彼に愚弄せられることである。そうしてついに神によりて勝利を獲ることである。
 
光明は暗黒の中に
 
キリストの福音そのものの真価を識る者はこれを人に勧めるにあたって、これに伴う損失迫害を語るに躊躇せず。
 
しかり、光明は暗黒の中にありて始めてその光輝を認めらるるものならば、真個の伝道師は返ってこれを暗黒(不利益の境遇)の中にその赤裸々の状を備えして伝えん事を欲す。
 
パウロとシラスとは大いなる紛争の中に神の福音をテサロニケ人の中に語れり。しかしてこれ福音発育のためには返って佳境なり。
 
名誉、利益、栄達の餌を供するにあらざれば行う能わざる伝道はこれを断然廃止するにしかざるなり。(内村鑑三
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野川のほとりで恒例の夜桜のライトアップがあった。昼間の桜の持つ雰囲気と違って夜桜はその妖艶さが魅力だ。あれから3週間でもう葉桜になってしまった。「光明は暗黒の中にありて始めてその光輝を認められる」とあるように夜だから光の中でのいのちに輝きが認められるのであろう。。ちょうど主の福音のように苦しみの中で始めて光り輝くように。