キリスト者

 
 
風は思いのままに吹く。それがどこからきて、どこへ行くのかは知らないが、しかし神の霊が働くところにキリスト者もまた生きて存在する。
 
彼らはこの世的に大きな集団をつくらず、社会的にも外形的にも必ずしも目だつ存在ではない。
 
彼らはこの世の宗教団体や政治的勢力のような形のキリスト教的勢力とはならぬであろう。
 
むしろイエスが言われたように、この世にあっては比較的「小さい群れ」として存在する。
 
(ルカ十二32小さな群れよ.恐れることはありません。あなた方の父である神は喜んであなた方に御国をお与えになるからです。)
 
しかしそれにもかかわらず、真の意味で社会を支え、また組織教会を支えている力は、イエスを信じるこれらの小さい群れなのである。
 
その人々を指してイエスは〈地の塩、世の光〉と言われた。そして実際歴史的に見ても、人類の文化と精神とを根底から支えてきたものは、小さい群れにすぎないイエスを信じた人々の力であった。
(石原兵永)
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教会に集うキリスト者の数は問題ではない.その一人一人が心からイエス様を愛しているか,命をかけて愛しているかが問われなければならない。とかく伝道こそが主に喜ばれる事と「押し売り伝道」がカルト教団でなされるが,信仰の本質を見失った結果である。
 
テモテⅠ2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
 2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
 2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
 
単純な信仰、信仰のみの信仰、結果に目を注がない信仰、信仰のみを持って満足する信仰ーこの信仰があって信者に初めて真の平和があるのである。
 
主イエスが「私はあなたに平和(安らぎ)を与える」と言われたのはこの平和である。
 
「人の凡て思うところにまさる平和」とパウロは雅行ったのはこの平和である。
 
これは深い信仰である。強い信仰である。堅い信仰である。この信仰があってこそ信者は世に勝つことが出来るのである。
 
律法の行いを離れて顕れた神の義の信仰、この信仰によってのみ大いなる事業は成就されるのである、社会はその根底から改められるのである(内村鑑三