聖書の読み方

聖書は全部読まなければ分らぬというものではありません。
 
また全部読んで分らぬうちは洗礼を受けられぬというものでもありません。ただイエス・キリストを信じるだけでいいのであります。

聖書を全部読むということは、すばらしいことです。
しかし、全部読んで合点が行き、納得できたら信じようと思っても、聖書はある意味で閉ざされた、大いなる矛盾の書でもありますから、なかなか理解できるものではありません。
 
第一、古来数知れないほどの、頭のよい聖書学者や神学者たちが、たてから横から研究しつくして、まだ研究しているこの聖書を、しろうとが、一回ぐらい読んで納得できたというのは片腹いたいというべきです。


ところが聖書学者や神学者が研究してもしても、しつくせないこの聖書が、しろうとのわたしたちにパアッと分る時があります。
それは聖書を全部読んだ時ではなく、むしろ聖書の中のただ一つのみことばであっても、魂につきささった時、イエスと出合った時、主の愛にふれた時です。そして主の愛がまず分って聖書を読みはじめますと、聖書のすべてが合点がゆき納得できるのです。

むかし高久(たかく)ことという九十歳になる老姉妹がいられました。わたしが「高久さん、聖書の中のどのことばがお好きですか」とたずねたら、「聖書の中で気に入らないところなど、これぽっちもないよ」と叱られました。
 
「一文不知の尼入道」ということばがあります。無知文盲で在家のまま仏門に入った女性のことですが、高久さんもある意味では一文不知の尼入道でした。しかし主の愛にふれて、聖書の全体を理解していたのです。頭のよい聖書学者がいくら調べても調べきれない聖書の難問が、高久さんの前には全部とけていたのです。

「聖書を全部読んで納得できたので洗礼を受けました」という人に、わたしは会ったことがありません。また「聖書を読み、教会へ出席しているうち、心がきれいになりましたから洗礼を受けました」という話も聞いたことがありません。

わたしたちは、聖書もよく分らないし、自分自身をもてあましている者ですが、こんなわたしを、イエス・キリストが愛し、手をさしのべていられることを知って、聖書は分らぬながら、主の愛がわかり、自分はだめのまま救ってくださるという、主の御手にすがって洗礼を受けるのです。その時、聖書はその謎をすべてわたしたちの前に開いてくれます。一文不知の尼入道でも、聖書の中で気に入らないところは「これっぽっち」もなくなるのです。
(藤尾正人、同信会トラクトより)
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一斉に木々のいのちが開花した。