妄想とは

 
妄想は自己欺瞞です妄想は、第一ヨハネの手紙18節で述べている自分を欺く人のことです。
 
 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。(1ヨハネ
 
自分は罪を犯したことを知っているのに、人に対して罪がないというならそれは偽りです。しかし罪があるのに、罪がないと信じているなら、自己欺瞞です。うそとは罪を犯したことを自分で知っていながら、罪がないと人に告げることです。妄想は、罪を犯したのに、自分をとても良いと思い込み、主イエスと同じように罪がないと信じていることです。
うそつきは罪があることを知っていて、他の人たちを欺こうとします。妄想的な人は、自分に罪があっても、罪がないと信じて、他の人々にも告げます。いいかえると、人を欺くことが嘘であり、自分自身を欺くことが妄想です。
 
うそも妄想も中身は同じであり、両方とも罪です。良心の中で自分の罪を知っていながら罪を犯していないと言って、他の人を欺こうとするのがうそです。一方、妄想は罪がないと言うだけでなく、心理的にも自分には罪がないと信じています。人を欺く者はうそつきです。自分自身を欺くのは妄想です。すべて妄想的な人は自分を欺きます。彼等は自分の想像の中に生きています。多くの高ぶる人たちは妄想的です!高ぶる人たちは自分をその様な者と思い込み、自分のみか他の人々もその様に信じることを願うのです。
 
パウロもかっては妄想的でした。ステパノが石で撃ち殺されたときにも、パウロは「彼を殺すことに賛成いていた」のです。(使徒8ー1)彼の内側は全く妄想的でした。彼がピリピにある教会に手紙を書いたとき「熱心の点では教会の迫害者」であった
 
(ピリピ3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
 
と、以前の歴史を語っています。彼は熱心に神に仕えるとは、教会を迫害することである、と思っていたのです。彼は人々を傷つけるのを見るだけで良しとしませんでした。彼は大祭司の所に行って、ダマスコの諸教会あての添え書きを求めました。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛り上げて、エルサレムに引っ張って来るためでした。(使9.12)彼はこのようにして、
神に熱心に仕えることが出来ると思ったのです。しかしこれは正しかったのでしょうか?
神に仕えたいという願いは正しいのですが、教会を迫害するすることが紙に仕えることとするのは間違いです。彼は間違っていました。しかし自分自身を正しいと信じていました。これが妄想です。
 
主がヨハネ162節で言っておられる人たちも妄想的です。
 
ヨハネ16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
 
主の弟子達を殺すことが神に仕え事であると、思うのは妄想です。
 妄想は心のことです。妄想的な人は間違ったことをしても、その心は正しいと主張します。
もし間違いを犯しても、自分は正しいと主張するなら、それは偽りです。しかし間違ったことをしても自分の口で正しいと主張するだけでなく、心の中でその様に信じるならそれは妄想です。うそつきは外側では堅いのですが、内側はしぼんでいます。外側で大胆であればあるほど、内側は益々むなしくなります。妄想的な人は内外いずれも堅く、大胆です。良心がそれを良しとしているかのようです。
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妄想的な人の状況はこのようです。すなわち間違ったことをしても、だれも間違いを指摘しないと、正しい事をしたという確信を持っています.これが妄想です。(ウオッチマン・ニー)
 
妄想は、認知症の典型的な病状の症状である、と医者は言われる。だから彼も奇想天外な言いがかりを付けて、信者を迫害し、追放しても、悪びれるところが一つもない。認知症に付ける薬はないそうだが、妄想にはパウロのように主の一撃の光が覚醒をもたらす。ただ祈るだけだ、主の光の彼の頭上に来たらんことを。