本当の自分

無教会の内村鑑三の弟子の高橋三郎師の文にこの様な文がある。
 
 
2007年3月11日より
「本当の自分」
教師として長い経験を積み重ねてきた方から、こんなお話を聞かせて頂いたことがあります。ある高校の女子生徒が、こんな告白をしたというのです。
――1年生として入学したとき、隣りの生徒と意気投合して、大いに盛り上がったのだが、それは同時に、嘘をつく最初の機会となった。相手があるタレントの名を挙げて、この人が好きで夢中になっている、と言ったので、自分もすかさず「私も好きよ」と言ってしまったのだが、実はそうではなかったのである。しかし、相手に同調しないと、自分を受け容れて貰えぬだろうという恐れから、つい嘘をついてしまったのだった。それ以後ずっと、この嘘を隠し通すために、偽りの自己を演出しなければならなくなり、今では自己喪失の苦しみに耐えられなくなった。失った「本当の自分」つまり「本来の自己」を取り戻し、「本当の自分」に立ち帰ることが現在の最大の課題である。――
この告白は、現代社会に広く見られる自己喪失の実態を、みごとに表現していると私は思います。この少女に限らず、ほとんどすべての人が、周囲の人々に迎合しないと受け容れて貰えないという恐れを持って、生きているのではないでしょうか。例えば官庁や会社の中で、明白な不法がまかり通っている実態を見ても、ひたすら上司に従い、周囲に同調するという自己保身が至上命令となる所では、その不法を克服し除去する自浄作用は、望むべくもありません。
今や日本の全体が、この種の妥協に押し流されて、歯止めのきかぬなだれ現象を起こしているではありませんか。あの女子生徒は、この重大問題の中核にメスを入れ、今こそ決然と本当の自分に立ち帰ろうと決意したのですが、これは同時に、あらゆる人に自己点検を迫る警世の言葉ともなりました。
ところでこの問いに対する解答はどこにあるのでしょうか。これは天下り式に与えられる事ではなく、各自が一生をかけて探究すべき実践的課題ですが、その大筋を語るとすれば、何が価値判断の基準となるのか、何を目指して進むべきか、という主題に凝縮するでしょう。
ただ利害損得の功利的打算ではなく、正義こそ依って立つべき最終的基盤という価値観に、いかにして到達できるのかという問いこそ、人間教育の最重要課題として、受け止めなければなりません。キリスト信仰に基づいて述べるとすれば、義なる神の前に立ち出で、自己の全存在を主イエスの御手におゆだねし、その御心に従って生きるという信仰の服従こそ、この問題の最終的解答だと私は思うのです。
この文の自己喪失は日本のどこにでも見られるということは真であり、悲しい現実です。」

かって集っていたカルト教団でも、同じような自己喪失集団で、ひたすら指導者とその一派に迎合することによって自己保全を図る信仰者とは想われない羊の群れであった。
この高橋三郎師の一文が多くの自己喪失の信者達が「本当の自分」を見いだして真の信仰に立ち返るリバイバルに資すること出来れば嬉しく思うのですが。ただ祈るだけです。