本末転倒信仰

主「を」喜ぶ、主「に」仕える 


キリスト信仰の奥義は「をに信仰」だ。「おに」ではなく「をに」だ。つまり主「を」喜び、主「に」仕える信仰だ。

 

偉い先生から聖書の話を聴いて喜ぶ程度の信仰は、掃いて捨てるくらいそのへんにころがっている。

大事なのは、福音を語る人物がかすんで、福音の中心のイエス・キリストが浮かび上がり、その主「を」喜ぶ信仰になることが第一だ。
 
この主「を」喜ぶ」信仰から、第二の主「に」仕える信仰が湧き出る。「喜びをもって主に仕えよ」と、喜びが喜びを生む(詩編百編)。

 「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」とあるように、迫害すら喜びとなった((使徒五・四一))。
 

明治以来、社会派といわれる教会から、背教者が多く出たのは、主「を」喜ぶより、主「に」仕えることを第一にしたからだ。まず主「を」喜ぶ。第二に主「に」仕える。この順序だ。  (藤尾正人)

 

 

確かにそうだが、もっと酷いのは、人、牧師や宣教師、に仕えることが主に仕えることと言う異端がこの世にのさばっていることが問題でしょう。主を喜ぶよりも、人(牧師や宣教師)を喜ばす事を第一とする本末転倒信仰はイエス様を悲しませるだけだ。