キリスト者の自由  マルティン・ルター

Ⅰコリント9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。 
 
ロマ13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
 
キリスト者にキリストが確保して与えたもうた自由とはどんな性質のもか。
 これらの二つのみ言葉から,ルターは二つの反する命題を導きました。
 
命題1.キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって,何人にも従属しない。
命題2.キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって,何人にも従属する。
 
愛は,それが愛するところのものに仕えまた服従するものです。それはキリストにおいても同様で、「互いに愛し合うことについては別です」とあるように、その点で命題は成り立つのです。
 
ガラテヤ4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました(律法に服従させて送り使わしたもうた。)
 
「キリストであって道理ではない」 ウオッチマン・ニーは言います。
宗教は,道理、教訓が宗教の中心ですが,キリスト教は道理や教えではなく、イエス様が土台であって、宗教の道理や教えの上に立っているのと異なり、キリストご自身の上に立つのがキリスト教です。
 
キリストは人が彼を信じるように求めます。愛すように求めます。(他の宗教の教祖は自分を信ぜよ,愛せよと言う人はいない。その道理をなるほどと信じるだけである。)
 
再生の教え
ヨハネ3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:14人の子もまた上げられなければなりません。
 
 3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
ヨハネ4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
 4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
 4:26 エスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
 
導きの第一歩は,エスがだれであるかを真に知らせること。だれであるか知りさえすれば,すべての解決はそこにある,と知る。エスがだれであるかを見るとき、道理は何の意味もないものとなります。重要なのではなく、イエスがだれであるかを見ること。主イエスさえあれば真の満足があり一切の充足を得たことになります
ヨハネ5章は道理ではなく、イエスを信じるように求める言葉です。
 
エスがだれであるかが重要。
この世の宗教の教祖は道理を与えても彼ら自身を与えることは出来ません。イエス様だけが出来ます。命のパンであり命の乾くことのない水であります。彼を信じ受け入れるならすべての事柄の問題のすべては解決します。
 
ヨハネ6:35 エスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
 
 
 6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
 
 
 
 6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
のみこころを行なうためです。
 
 6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 
「 例え、明日滅びようとも、私は今日リンゴの木を植えよう。」
 
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