信仰の友、小早川宏兄 葬儀。

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エスキリストは、人間の罪、親も同然の創造主なる神様を無視して生きることを聖書では罪と言いますが、その罪を許るすために、我々の身代わりとなって十字架の上で死んでくだり、よみがえって下さいました。罪故に魂の死、亡び、を与えられていた人間は、イエス様を信じることによって、その魂は決して死ぬことが無くなりました。死の恐怖から解放されたのであります。
召される前日の26日の午後に病院にお見舞いにお邪魔しました。丁度寝ておられたので聖書を読んでお祈りをし終えたときにフット目を覚まされて、聞いたことのある声だと思ったとおっしゃってにっこりほほえんでご自分で手袋を外されて握手をしました。出血が続いていましたので手が冷たくなって手袋をされておられたのでしょうが元気そうでしたので、翌日召されるとは思いもしませんでした。「人間は病気では死なない。主が決められたときにめされるのだ」とよく言われますがまさしく27日がその時であったのでしょう。

「あなたは今日パラダイスにいます」とイエス様を救い主と信じた者に十字架の上で言われました。ですからこの葬儀は、小早川兄弟の死を悲しむためのものではなく、兄弟が天国に行かれたことを共に喜ぶための葬儀であります。


彼との生前からの交わりからでしょうか、葬儀の司式を仰せつかりました。聖書のメッセイジの際に上のことをお話ししました。彼は画家でした。多くの油絵を残してくれました。そこには彼のイエス様に対する愛がキャンバスに記されていました。イエス様ご自身の彼への愛が現されていました。ですから彼の絵は、見るものに多くの安らぎを与えてくれました。神を愛し、人を愛することが、人に科された人の義務であり、権利でもあると、イエス様は言われました。その愛をキャンバスに残してくれた彼に感謝しました。葬儀では、彼のシシリー島での一枚が展示されました。

マタイ4章4節  イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」


そう、神ご自身が「愛」そのものであるから、愛のお方から出る愛の言葉によって全ては造られ、生かされるのです。

写真1、小早川兄弟の穏やかなデスマスク

写真2、葬儀の御言葉と生花

写真3、シシリー島での写生

写真4、一人息子清君のフルート演奏に送られて葬儀は終わった。