ともにおられる主

詩編 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私ととも

におられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

 本当に、共におられると意識しての毎日だろうか、と自問する今日この頃。体調優れず、あれほど調子

よく動けた麻痺した左足に痛みを覚える今日この頃。調子に乗りすぎて、杖無しでの歩行練習が、過剰で

あったのか。自分の力に頼るときに、主はご自身の存在を知らされるのであろう。

生かされるのも、歩けるのも、主の御心であると言う、常なる認識の欠如がこのような状況をもたらした

のであろうと、悔いることしきり。

前回のブログから今回で丁度一月ぶりの投稿。夏ボケの後遺症か。写真を撮らなくなったせいもあるが。


ローマ 9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

哀れまれている者こそ、幸いなり、か。

一夜明けて、体調戻り、あの悔い改めは何のため成り、と自問せれども、かってのイスラエル人の如く

のど元過ぎれば、すぐに熱さを忘れる人間の自分勝手さを其処に見つけて、自我の強さを思い知らされる。

Ⅰテサロニケ5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

この御言葉は、我々の信仰は主が守ってくださるという、嬉しい約束の教えです。霊と魂、そして身体も

主が守ってくださるなら何で人は思い煩ったり、努力したりするのか。ただ主に委ねるだけが、信仰の本質だと教えてくれている。