喜びの集い(西軽井沢福音センターにて)

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詩編145:14 主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。

145:15 すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。

145:16 あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。

145:17 主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。

145:18 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

145:19 また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

145:20 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。

145:21 私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。

恒例の夏の「喜びの集い」が、ここ御代田町にある西軽井沢福音センターにて、金曜日の夜の集会から始まった。全国各地から、思い思いに参加する。8月終わりまでの毎週末金土日の2泊3日の喜びの集い。

メサイヤコンサートなども計画されていて、8月にならないと一杯にはならないので今週は静かな、落ち着いた集会である。もっとも土曜の夜からの参加であったが。

この御言葉は、ある兄弟の今日のメッセイジに引用された聖句であるが、いま苦しみの中にある主を愛する者にとって、嬉しい救いを約束していただく御言葉である。

集会の後、一人の女性との交わりが与えられたが、まさしく罪の苦しみの中に置かれている方で、救いを必要としている方で、男性関係の清算に苦しんでいる方であったが、この御言葉のよって勇気が与えられるように祈るばかりである。

罪を自覚し、悔いることはいと容易いが、改めることは至難の業である。「悔い改めて福音を信じなさい。マルコ1-15」福音を信じる前に、悔い改める必要があり、順序がそのように求められている。
罪を改めてから信仰にはいること。罪人の祈りは聴かれない、とあるように罪の悔い改めていない信仰は信仰とは言わない。

悔い改めがあっての信仰で、信仰あっての悔い改め、まさしく信仰と悔い改めは表裏一体のものと成すべきもの。ダビデもかっては罪を犯し、この様に罪を悔い改めて主から赦された。罪を認めて、明らかにする者には、主からの恵みが注がれるので、彼女にも主の豊かな恵みがあらんことを祈るだけだ。

詩編
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。

51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。


写真:御代田の別荘のイングリッシュガーデンは、西洋あじさいが満開、霧雨の中、真っ白な大輪が目に鮮やか。罪赦された者の輝く顔のように。