ヴェルディ作曲オペラ 「イル・トロヴァトーレ」

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ボローニャ歌劇団が日本に来た。北イタリヤのボローニャから最高のフルメンバーでの来日、字幕付きなので現地行くよりも、言葉が分からない我々には最高の贈り物であった。

家内に連れられて行くうちに、オペラのおもしろさも分かってきて、興味を持って人の声の美しさを味合うことが出来るようになってきた。

世界一のテノール歌手と評判のアラーニャ主演の「イル・トロヴァトーレ」を上野の東京文化会館まで見に行った。演技は撮影禁止なので、場内の雰囲気を撮って見たが、この様にあまりパッとしない写真になってしまった。

クラシックはやはりヨーロッパの産物で、幾ら日本人が頑張っても歴史の長さや積み重ねてきたもの、つまり文化の質の違いは埋まるすべはないのであろう。ローマ時代から続く文化はキリスト教の存在無しには成り立たなかったであろうし、今もその基本的な思想の中に脈々と息づいている。

日本が明治時代に西洋文化を取り急ぎ輸入することに熱心であったが、キリスト教という宗教とベースになる聖書を輸入することに消極的であったが故に、未だに日本の文化は西洋的な文化とは水と油の関係にあるように見え、世界に於いて、日本が相変わらずに異質な國として取り扱われているように見える。

同じ物である必要はないが、日本独自の物を出さないで物まねに終始していることが、我々の恥なのだ。
最近の絵画の盗作に於いても、日本の文化の脆弱さを思い知らされる。日本人として、海外の友人に恥ずかしいとおもう。

日本人の持つ価値感とはいかなるものなどあろうか。金権主義がバブルがはじけて、金や物が人の生きる目的ではないと悟ったはずなのに、ホリエモンやムラカミ等という人間を排出し、絵画を盗作し、何でもかんでも人の物の上澄みをすくい取って自家薬籠中の物にする手腕は、テクノロジーの世界に於いてもしかりである。

「ジャパンアズナンバーワン」と煽てられていい気になっているうちに奈落の底に落ち込んで、と言うより落とされて、塗炭の苦しみを味わったはずなのに、この国民は学習能力がないのであろうか。すぐに忘れて思い上がり失敗を繰り返す。

これは自戒の思いを込めて言っていることで、事業で少々の成功を収めると、過剰投資、拡大投資で失敗し、市況の冷え込みでその傷をさらに大きくしたりして、懲りずに繰り返す愚かさは、付ける薬はないのであろう。

イスラエルの民が、その長い歴史の中で、神に選ばれた民であると言うことを自覚したときには祝福され、忘れたときには、痛いお仕置きを受けたにもかかわらず、何時までも神に忠実になることはなかった、のと同じなんだな、と最近その思いを強くしている。

(写真)東京文化会館での、開演前の雰囲気。ヨーロッパでのオペラ観劇の雰囲気とは少々違うようであった。