ロマ書の研究第1講 改

内村鑑三の名著「ロマ書の研究」のサイトから、数人の兄弟と輪読を始めた。昨日は第一回目であるが、その文章の持つ力に大いに励まされて、内村の豊富な知識と深い信仰に魅せられた。
 
 
第1講の中心点は以下の通り。
 
第一は、第一章十六節、十七節である。われは福音を恥とせず。この福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人、すべて信ずる者を救わんとの神の大能たればなり。神の義はこれにあらわれて、信仰より信仰に至れり。しるして、義人は信仰によりて生くべしとあるがごとし。
 かの北歐の剛健兒マルチン・ルーテルは、その屬する宗派の使命を帶びてロマ府に使した。時に彼は三十歳の壯齡においてあつた。彼は多くの巡禮者の群れに投じて「ピラトの階段」を膝をもつて至りつつあつた。この階段はもとピラトの政廳にありしものにて、イエスの登りしことあるものと傳えられてゐる。(勿論事實ではない)。ゆえにこの階段を聖なるものとして、巡禮者が敬虔なる姿態をもつて登ることになつていたのである。中途にして彼の心に浮びしはロマ書第一章十七節、十八節であつた。
 
ロマ書1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。(新改訳聖書
 
ことに「義人は信仰によりて生くべし」の句であつた。電撃のごとく、この句が彼の魂を撃つた。しかし新しき生命はこの失望の中より發芽しはじめたのである。かくてプロテスタント敎は起り、かくて自由は全歐にみなぎるに至つた。彼によりて起りたる宗敎改革は、決して單なる宗敎の改革ではなかつた。また舊敎に對抗して新敎が起つたというだけのことではなかつた。實に彼の宗敎改革は、當時の世界たる歐洲全土の大改革であつた。げにキリスト敎の生起を別として、宗敎改革が與えたほどの大改造はかつてこの世に起らなかつたロマ書が-- ことにその第一章十七節が -- かくのごとき大改造の因となつたのである。ふしぎである。しかし事實である。
 
ロマ書 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
 3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
 
 すべての人、罪を犯したれば、神の榮光を受くるに足らず、功なくして、神の恩惠により、キリスト・イエスにある贖罪によりて義とせらるるなり。すなわち神は忍耐をもつて過ぎ來しかたの罪を見のがしたまいしが、〔見逃すだけではおのれの義が立たないので) 己れの義をあらわさんとてキリストを立て、その血によりて信仰によれる購いの供物となしたまえり。(改譯)
 
 まことに人の救わるるは行いによらず、信仰による。功なくして、ただキリストを信ずる信仰のみによりて、神の恩惠を受けて義とせらる。これイエスの十字架の贖罪あるがためである。人はただイエスを信ずるによりて、罪をゆるされ、潔めらる、唯一の救いの道は信仰であるとこれ人を救い、國を救い、世界を救う救濟の大原理である。もしヨブ記第十九章二五節がヨブ記の中心であり、かつ舊約聖書の中心であるならば、ロマ書第三章二五節は、ロマ書の中心たるにとどまらずして、また實に新約聖書の中心であるのである
 
 ヨブ 19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

古來この語によりて靈魂の平安を得たる人は、その數無限であると思う。英の詩人ウィリアム・クウパーが絶望の底まで落ちこんだときであつた。彼ははなはだしく興奮して、居室を右に左に歩みつつあつた。ついに彼は窓ぎわに腰をおろした。そこに聖書があつたので、何かのなぐさめと力を見出し得るかも知れぬと思つて、それを開いた。彼は言うてゐる。「私の眼にふれた箇處はロマ書第三章の二五節であつた。
 
ロマ3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 
義の太陽の光はこよなき豐けさをもつて私を照した。私はキリストが、私の赦免と全く義とせらるることとのためになせしあがないの完全充足なるを知つた。一瞬にして私はこれを信じ、そして福音の平和を受けた」と。彼はなお言う。「もし全能者の腕が支えなかつたならば、私は感謝と歡喜のために壓倒されてしまつたことであろう。私の眼は涙に充ち、感きわまつて聲は出なかつた。私は愛と驚異にみなぎりあふれて、ただ靜かなる敬畏をもつて天を見上げ得るのみであつた」と。「その歡喜は言いがたく、かつ榮光あり」(ぺテロ前書一章八節)とは正にかくのごとき聖靈のはたらきを言うのである。(テーラー氏著クウパー傳より)
 
 げに第三章二五節のごときは聖書の中心たる著るしき語である。聖書はロマ書に照して見るとき完全に理解し得るとカルヴィンは言うた。我らはむしろ進んで言おう、ロマ書第三章二五節に照らして、創世記の始めより黙示録の終りまで眞に解し得るのであると。眞に偉大なる言である。
 
 第三に、我らは第十三章十一節 ~十四節を擧げたい(讀者は聖書を開きてこの箇處を讀まれたし)。
 
ロマ書13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
 13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
 13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
 13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
 
こは再臨の希望に根ざす強き新生活のすすめである。この語にはげまされて新生涯に入つた人の數は無限であると思う。かのロマ敎会の最大偉人オーガスチンはいかにかして信仰生活に入らんとつとめつつあつたが、心に荒れ狂う情欲はむなしく彼の努力を嘲笑つていた。しかし期はついに來た。聖靈は彼の切なる願いを納れた。その聲は明らかに「聖書を開け」と聞えた。彼は燃ゆる眼をもつて十一節以下を一氣に讀み下した。ここに強烈なる決心はおのずからにして彼に起つた。ここに「舊きは去つてみな新しくな」つた。その熱烈なる信仰の叫びと廣博なる思想とをもつて世界に大感化を與えしオーガスチン、彼はかくして生れたのであつた。ロマ書第十三章末段は、オーガスチンを通して全世界に大感化を與えたのである。
 世界を改造せし大偉人を幾度も起したるロマ書は、すなわち世界を改造せし書と言うべきである。まず人をその根柢において改造し、以て世界の改造をうながすものはこの書である。これ今日までの歴史の證明するところである。
 
 余自身またこの書によつて救われし一人である。
 
儒敎國に育ちし我らは、キリスト敎をもつて聖人君子たるの道と考え、完全なる道德的状態に達せんことを信仰の目的と考えやすい。
 
然るとき、己れの實状が己れの理想と副わざるため、苦悶懊惱の襲うところとなるのである。余のごときは、この罪の悶えに泣きしも、日本國においてこれを解決するの道なく、ためにはるばる米國にまで渡りて、この疑問の氷解を求めたのである。時に親切なる先生あり、余に敎えていわく、「汝みずから義たらんとつとむるなかれ。そはあたかも小兒が植木を鉢に植えて、毎日引き抜きつつ發育如何を調査する類にして、到底でき得べきことにあらず。汝みずから聖くならんとつとめずして、ただ十字架のイエスを仰げ、さらば平安汝に臨まん」とかく敎えられて大いに悟るところあり、かつロマ書を精讀して、ついに平安に達したのである。仰ぎ見よ、さらば救われんと、これロマ書の提示する平安獲得の道である。みずから義となりて平安に達せんとするは、福音とは正反對の道である。福音はただ一つ、すなわち信仰によりて神に義とせられて平安に入るのである。我らの研究せんとするロマ書は、この道を人に敎うる書である。
 
 最後にロマ書の骨子を述べよう。第一章一節~十七節は前置きであり、第十五章十四節以下第十六章までは結尾のあいさつであるゆえ、これを除きて、第一章十八節より第十五章十三節までをロマ書の本體とする。これは左の三綱目に分たれる
 
一、人はいかにして救わるるかの問題(第一章十八節~ 第八章)
二、人類はいかにして救わるるかの問題(第九章~ 第十一章)
三、この救いにあずかりしものの生活の問題 =信者の實践道德(第十二章 ~第十五章十三節)
 
右のうち、第一がもつとも大切であつて、これロマ書の主要部である。そしてこれをさらに左の三項に分つ。
 
一、義とせらるること(第一章十六節 ~第五章)
二、聖めらるること(第六章、第七章)
三、榮化せらるること(第八章)
 
この三つ、すなわち義とせらるること、聖めらるること、榮化せらるることは、いずれも自己の努力によらず、ただ信仰による仰瞻(ぎょうせん)によつて與えられる。これを細説すれば、
 
十字架のキリストを仰ぎ見ることによつて義とせられ、
復活せるキリストを仰ぎ見ることによつて聖められ、
再臨すべき彼を仰ぎ見ることによつて榮化せられる。
 
一として自己の功、行、積善、努力等によつて達成せらるるものはない。
すべてすべて彼を信ずる信仰により、彼の遂げたまいし功による。
 
ただひとえに彼を信受し、彼に信頼し、彼を仰ぎ見ることによりて、我らは義とせられ、また聖められ、また榮化せしめらる。
 
このことを敎うるがロマ書の主要なる目的にして、それに添えて人類の救いとクリスチャンの實践道德とを説示するのである。
 
簡單にして明瞭、解しやすきがごとくにしてしかも解しがたく、解しがたきがごとくにしてしかも解しやすきがロマ書である。
 げにこの偉大なる書は我らの熱心なる研究に値いするものである。
 
 
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(第1講 完)