「犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日」柳田邦男(1)

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今この本にはまっている。柳田邦男氏が、25歳の次男洋二郎さんに、心の病の結果、自死されて脳死の11日間を通して味わった喪失経験について、ノンフィクション作家として赤裸々にその息子に対する愛情を吐露している。

日本に於いては、過去8年間毎年3万人を超える自殺者が出る、と今日のニュースは報じていた。愛する者を失ったが誰しも経験する喪失感は、その後の人生に深く大きな傷跡を残すであろう。

それが愛する肉親とか友人とかばかりでなく、長年携わってきた仕事とか、研究とか、企業とか、自分の人生で生き甲斐としてきたものを失うときに、人は深い喪失体験で傷つき、再起が図れなくなるのであろうと思う。

もっともこのタイトルの「サクリファイス」は洋二郎さんが、傾倒していた映画監督タルコフスキーの作品名から取ったものであるが、洋二郎さんがその犠牲という思想を持って、骨髄を提供しようと登録したという行為に基づいて、邦男氏はこの題名を付けたのであろうし、現に脳死と判定されて、洋二郎さんの二つの腎臓は移植を必要とする方に提供された。

洋二郎さんが心の病を発症したのは、大学1年の20歳の時であった。だがその病は中学の時からのものであった、と父として後になって気付いたことに後悔の念を深めている。

洋二郎さんの残した日記や短い小説などから、洋二郎さんのこころの病の原因は、「究極の恐怖心」と呼んでいるものであると父親として理解し、それは人間の実在の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという絶対的な孤独の事であった。
その絶対的な孤独と称するものは、全ての人間が、心の底に秘めているもので、人によってその現れ方は違って来るであろうと思う。洋二郎さんは、対人恐怖症という神経症という形で表に出たが、自己実現に邁進したり、プライドの育成に努力したり、弱いものへの奉仕に没頭したり、宗教にはまったり、如何に自己の存在証明を果たすか、が人生の主な仕事になるのであろう。

「絶対的な孤独」は特に歳を取って、社会からはみ出したり、追い出されたり、「永遠のいのち」を自分のものとしていないと、死を間近に覚悟をしなければならないものはしんどいであろう。

この「犠牲・サクリファイス」という作品には出版後世間から多くの反響があり、その反響として受け取った集百の手紙を無視することが出来なくなって柳田氏は「犠牲への手紙」という続編とも言えるものを表した。(続く)