妄想
イザヤ 50:10あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。
50:11見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。
詩 36:9 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。
霊の実際は真(まこと)です。真理はわたしたちに自由を得させます。しかし多くの時、あるクリスチャンは、真の者に触れないで、むしろ虚偽に落ち込みます。彼は虚偽によって欺かれ、それに縛られます。彼それの真相をはっきり見ていないのに、自分ははっきりしていると思っています。そして自分の考えていることを行うことは間違っているのに、とても正しいと思い込んでいるのです。この様な状態を私たちは「妄想」と呼びます。妄想的な人には神の光が必要です。そうでないと妄想から出てくることは出来ません。今、妄想とは何かを見てみましょう。
妄想とは何か
妄想は自己欺瞞です。妄想は、第一ヨハネの手紙1章8節で述べている自分を欺く人のことです。自分は罪を犯したことを知っているのに、人に対して罪がないというならそれは偽りです。しかし罪があるのに、罪がないと信じているなら、自己欺瞞です。うそとは罪を犯したことを自分で知っていながら、罪がないと人に告げることです。妄想は、罪を犯したのに、自分をとても良いと思い込み、主イエスと同じように罪がないと信じていることです。
うそつきは罪があることを知っていて、他の人たちを欺こうとします。妄想的な人は、自分に罪があっても、罪がないと信じて、他の人々にも告げます。いいかえると、人を欺くことが嘘であり、自分自身を欺くことが妄想です。
うそも妄想も中身は同じであり、両方とも罪です。良心の中で自分の罪を知っていながら罪を犯していないと言って、他の人を欺こうとするのがうそです。一方、妄想は罪がないと言うだけでなく、心理的にも自分には罪がないと信じています。人を欺く者はうそつきです。自分自身を欺くのは妄想です。すべて妄想的な人は自分を欺きます。彼等は自分の想像の中に生きています。多くの高ぶる人たちは妄想的です!高ぶる人たちは自分をその様な者と思い込み、自分のみか他の人々もその様に信じることを願うのです。
パウロもかっては妄想的でした。ステパノが石で撃ち殺されたときにも、パウロは「彼を殺すことに賛成していた」のです。(使徒8ー1)彼の内側は全く妄想的でした。彼がピリピにある教会に手紙を書いたとき「熱心の点では教会の迫害者」であった(ピリピ3-6)と、以前の歴史を語っています。彼は熱心に神に仕えるとは、教会を迫害することである、と思っていたのです。彼は人々を傷つけるのを見るだけで良しとしませんでした。彼は大祭司の所に行って、ダマスコの諸教会あての添え書きを求めました。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛り上げて、エルサレムに引っ張って来るためでした。(使9.1-2)彼はこのようにして、
神に熱心に仕えることが出来ると思ったのです。しかしこれは正しかったのでしょうか?
神に仕えたいという願いは正しいのですが、教会を迫害するすることが神に仕えることとするのは間違いです。彼は間違っていました。しかし自分自身を正しいと信じていました。これが妄想です。
主がヨハネ16章2節で言っておられる人たちも妄想的です。
ヨハネ16:2人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
主の弟子達を殺すことが神に仕え事であると、思うのは妄想です。
妄想は心のことです。妄想的な人は間違ったことをしても、その心は正しいと主張します。
もし間違いを犯しても、自分は正しいと主張するなら、それは偽りです。しかし間違ったことをしても自分の口で正しいと主張するだけでなく、心の中でその様に信じるならそれは妄想です。うそつきは外側では堅いのですが、内側はしぼんでいます。外側で大胆であればあるほど、内側は益々むなしくなります。妄想的な人は内外いずれも堅く、大胆です。良心がそれを良しとしているかのようです。
妄想的な人の状況はこのようです。すなわち間違ったことをしても、だれも間違いを指摘しないと、正しい事をしたという確信を持っています.これが妄想です。
妄想(もうそう)とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(病識がない)場合が多い。精神医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であるということや、経験、検証、説得によって訂正不能であるということ、内容が非現実的であるということが特徴とされている。日常的な会話でも用いられることもあるがそのときはいかがわしい考えや空想を表し、必ずしも病的な意味合いを含むわけではなく軽い意味で使われている。
妄想と一言にくくっても、その内容や程度は個人差が大きい。軽度で生活に支障をほとんど来さないものから重大な支障を来すようなものまで様々である。本人が妄想であるとは自覚していない(「病識」がない)ことが多いが、漠然と非合理性に気づいている場合(いわゆる「病感」がある状態)、あるいは他者の前では隠すことができ生活に適応している場合(いわゆる「二重見当識」)など様々である。
原因による分類 [編集]
また、原因となる基礎疾患によっても生じる妄想の種類が異なる傾向があり、統合失調症に多いのは被害妄想、関係妄想、誇大妄想などで、うつ病に典型的なのは罪業妄想、心気妄想、貧困妄想であるとされているが、必ずしも全例に当てはまる訳ではない。
「一次妄想」と「二次妄想」 [編集]
古典的には、まったく根拠を持たない妄想を一次妄想(「あの人はまだ自分がxxであることに気づいてない。」「おれはナポレオンの生まれ変わりだ」「近所の人たちが私を電波で攻撃している」など)、何かしらの経験と関わりがある妄想を二次妄想(「私の病気は不治の病なのだ」「皆の不幸は私のせいなのだ」など)と区別している。しかし、一次妄想と考えられる妄想にも本人なりの理由が存在している場合も多く、真の無意味で根拠のない妄想はまれである。了解可能か否かで一次妄想と二次妄想を区別するという定義もあるが、「私の病気は不治の病なのだ」という妄想も抑うつ気分から悲観的妄想が出現していれば理解可能であるが健康なひとがそのような妄想をもっていれば了解不能であるため、これらの区別は難しい。偏見との区別も難しく、考えの根拠を聴取し、ひとつひとつ反証していくことで妄想と明らかになるが、文化が異なる反証であるとその方法は有効ではなくなる。
さらに一次妄想は以下の5つに細分化されている。
1.妄想気分:周囲がなんとなく意味ありげで不気味と感じる。形容ができないがそこから具体的な判断がおこり妄想となる。
2.妄想知覚:正常な知覚に特別な意味づけがなされる。それが強固な確信となり訂正が不可能である。
3.妄想表像:とんでもないイメージを抱く。
4.妄想覚性:途方もないことを察知するが実体には何も理解できていない。
5.妄想着想:ある考えや古い記憶が突然思いがけない意味をもって思い出され、強固な確信に至ること。
妄想知覚などは統合失調症でよくみられる現象である。二次妄想はうつ病でよく見られる現象である。心気妄想、微小妄想などが有名である。「なんとなく胃が痛い、病院にいって検査しても異常がない、心療内科の受診を勧められ、それでうつ病と診断される」こういったエピソードが心気妄想には多い。
内容による分類 [編集]
誇大妄想 誇大妄想は、現実的な状況から逸脱し、自己を過剰評価したり、実際には存在しない地位・財産・能力があるように思い込んでいる状態である。躁病によく見られる。誇大妄想の原因として評価基準の甘さと自己と他者の評価のバランスの悪さがある。被害妄想 他人から悪意をもって害されていると信じる妄想。何らかの犯罪的な干渉を受けていると信じこみ、事業や就職などにおいて失敗しても、他者からの攻撃で失敗したと考えたり、「脳内に何らかの機器を埋め込まれ、意識や行動を操作されている」と考えたりする。被害妄想も参照のこと。注察妄想 「常に盗聴されている」とか「隠しカメラで監視されている」と思い込む妄想。 関係妄想 周囲に起こっている現実を自らに結びつけて考える妄想。周囲の行動・言葉に過敏で自己に関係して捉えるがそれに動じることも多く妄想まで発展し現実離れしていく。盗害妄想 自分の物を盗まれたと思い込む。認知症によく見られる。罪業妄想 自分は非常に悪い存在だ、罰せられるべきだ、皆に迷惑をかけているなどと思いこむ妄想。うつ病によく見る。 心気妄想 自分の身体の一部が病気にかかっていると思いこむ妄想。実際に病気に罹っていても、その症状が自分の思っているより非常に軽い場合もこの種類に分類される。うつ病によく見られる。貧困妄想 現実にはそうでないにも関わらず、自分は非常に貧しい、借金を抱えてしまったなどと信じる妄想。うつ病によく見られる。 宗教妄想 誇大妄想の延長上、またはひとつの症状として考えられる。統合失調症のひとつの症状としても考えられているが、自分自身に何か超次元的で特別なパワーがあると信じたり、霊界のような所から特別な預言や啓示を受けた、またはあらゆる病気を癒す力を授けられたなど、内容が極めて非日常的で壮大なものであり、訂正不能な強固な確信があることが特徴である。例えば自分はイエス・キリストの再来であるとか、釈迦の生まれ変わりであるとか、人類滅亡から世界を救うための救世主または預言者であるとか、現実世界からは考え得ることのできない壮大なスケールによって描かれる妄想が大半である。つまり自分自身を“神”であると信じてしまう症例である。人格崩壊まで至るケースは稀であるが憑依妄想を共に発症するケースがある。これが極端になると新興宗教の教祖にまでなってしまうケースも見受けられる。その他 不死妄想、Capgras妄想、被毒妄想、恋愛妄想、血統妄想など(詳しくは統合失調症参照)。嫉妬妄想は隠される場合が多い。
妄想の原因 [編集]
生物学的に [編集]
精神力動学的に [編集]
戦争や災害の被災者や凶悪事件等の被害者が、一時的に妄想状態に陥ることがある。これは、現実から遊離する事によって精神的なダメージを回避しているとみなすこともできる。統合失調症などの疾患においての妄想ですら、過剰なストレスが精神を破壊しないようにするため逃げ場であるという見方すらできる(ジョン・シュタイナー「こころの退避」参照)。但し安全装置という観点では妄想の代わりに衝動性が生じることもある(いわゆる、キレる状態)。
しかし安全装置であるとはいえ病的な方法であることには間違いなく、治療が必要である。
そして、本人にとっては安全装置であったがゆえに、治療の途中で激しい抵抗に遭うことは珍しくない。それなりに安住の地であった妄想の世界から現実の世界を直視することは苦しみを伴うのである。ここでいかに本人のペースを尊重しつつ、希望や安心感を与えつつ現実と折り合いをつけてもらうかが、精神科医や援助者の力量が問われるところである。
妄想の弊害 [編集]
その妄想に対して否定的な現実を敵視したり、妄想を認めない他人に攻撃的になることがある。ときには暴力に結びつくこともある。周囲からみれば異常な行動をとり、周囲に疎まれ孤立したり攻撃されたりする危険がある(例としては「警察に電波で盗聴されている」と思い込み、警察に「そのような捜査が許されるのか」と乗り込んだり、それで相手にされなかったり警察が否定すると警視庁のトップや大臣、果ては総理大臣に記録が残るかたちで質問状を送る、当然相手にされるはずがないが、それで満足な回答が得られないと「答えられないのには理由があるはずだ」などと極めて強引かつ自分にいいように解釈するというものがある。インターネットのウェブサイトやブログ上でその主張を公開する者も多い)。本来、社会的動物である所の人間が社会から逸脱する事は、当人にとっても周囲にとっても非常にダメージが大きい。妄想が回復した後の社会復帰にも支障が残ることもある。
ただし、だからといって疑うことをやめてしまうと、実際に他者にいいように利用される可能性もあるため、妄想とそうでない場合との線引きは事実上難しいといえよう。
「自分は空を飛べる」などの妄想に支配され転落したり、「頭の中に埋め込まれた装置を取り出す」ために頭部を自傷するなど自らを傷つける危険性もある。
仏教における妄想 [編集]
仏教では妄想を「もうぞう」と読むことが多い。妄想は心を曇らして煩悩を増幅せしめる最大の原因として厳しく戒められている。精神医学でいわれる病的なものとは異なり、仏教における妄想は範囲が広く、健常者が日常的に行っていることである。過去を悔やんだり、未来をあれこれ気にしたり、主観的な価値判断や断定をしたり、考えてもわからないことを頭の中であれこれ思考することなど多岐に及ぶ。
元寇の脅威にさらされていた鎌倉時代、大軍勢の外敵とどのように戦えばいいのか苦慮していた執権北条時宗に対し、禅僧無学祖元は「莫妄想」(妄想することなかれ)と諭したといわれる。
関連語句 [編集]
健常者の(しばしばくだらない、あるいは淫らな)空想のこと。妄想癖(もうそうへき)とも言う(例:性的妄想)。
想像の域を出ない主観的な決め付けのこと。しばしばインターネット上で多用される。