聖書とメトロノーム

音の芸術の世界は一見、奔放そのもののようでありながら、実はその基礎は正しい速度を規準するメトロノームによって支配されております。 
 
しかし演奏にさいして、音の速度がなぜそう重要視されねばならないのでしょうか。 それは音の速度は、人間のからだでいうなら、全機能の運転の中枢をなす心臓の鼓動のように、その個々の曲のテーマの脈はくにほかならないからです。

 しかしメトロノームが必要なのは、単に音の芸術の世界ばかりではありません。あらゆる芸術的、否、あらゆる創造的世界には、その基底にメトロノームが必要です。歴史の流れの中に立つ人間一人一人も、広い意味では、創造的世界の一形成点であると言えます。
してみればキリスト者は、信仰という創造的世界の一形成点です。それゆえキリスト者演奏家にたとえれば、聖書は彼のメトロノームになぞらえられます。こう考えてくると、この「トスカニーニの一断面」と題したエピソードは、次の二点を照明してくれるように思います。

 第一にメトロノームは「判断の究極的な規準」であるということです。世界的巨匠の間でさえ、演奏のテムポが早過ぎたか、おそ過ぎたかに関して、そこに意見の衝突がしばしば起るのを防ぎえないのです。
 
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信仰の世界でも、それがはたしてキリスト教の本質からはずれてはいないか、異端に傾いてはいないか、というような判断において、神学者の間に、あるいは信仰者の間に、意見が対立することは決して珍しくありません。その事態はこのエピソードのように、「宴席の空気はやや白けて来た」どころのさわぎではないのです。しかしそのような場合に、最も賢明な道は、このG夫人のしたように、「ミスター・メトロノームにきく」ということです・・たとえ問題の焦点に立つ事柄が、「マエストロ」(先生)の位置に立つ人の主張であったとしても。(渡 辺 善 太)